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パチンコ ─ 羽根モノ
ロイヤルキング
SANKYOチューリップ式権利物に分類される「羽根物」の一台。翌1985年には後継とみられる『ロイヤルキング'85』が登場しており、シリーズの初代にあたる可能性が高い。動画は個人の方が投稿したレトロパチンコ実戦記録(埋め込み制限のため外部リンク)。
特集 ─ 昭和59年
1984
3月18日、江崎グリコの社長が何者かに誘拐される。世間を震え上がらせたグリコ・森永事件は、犯人が名乗った「かい人21面相」という不気味な名前とともに、この年から翌年にかけて日本中を騒がせ続けた。夏にはロサンゼルス五輪で日本が金10個を獲得し、街にはわらべ「もしも明日が…。」が流れていた。ホールでは電動式ハンドルが広がりはじめ、貸玉料金は1玉4円のまま――派手な事件と、変わらない日常が同居していた一年だった。そして11月、『週刊少年ジャンプ』の片隅で、まだ誰も知らない新連載がひっそりと始まっている。のちに国民的作品となる『ドラゴンボール』だ。この時点では、そのことに誰も気づいていなかった。
← 思い出年表にもどる1984年のホールは、まだ手打ちから電動式ハンドルへ切り替わっていく途中の空気を残していた。 1973年に電動式ハンドルが認可されてから10年あまり、少しずつ主流が入れ替わっていく最中である。 貸玉料金は1979年に定められた1玉4円のまま、この年も変わらなかった。店内には軍艦マーチが 鳴り響き、それが当たり前の音として受け止められていた時代——分煙も禁煙も、まだ遠い未来の話だった。
この年、SANKYOはパラソル・マリンシェルター・ロイヤルキング・コンドルS といった台をラインアップに並べていた。翌1985年には『ロイヤルキング'85』という後継とみられる 機種も登場しており、シリーズの初代がこの年にあたる可能性が高い。一方、マルホン工業からは 『アラジン』という普通機が春に登場する。10カウントのチューリップ式で、実質的には 一発台のような大量出玉を叩き出す一台だった。ただし、この手の大量出玉は長くは続かない。 翌1985年末の規則改正で、こうした台は姿を消していくことになる。
パチスロの世界では、アドバンス(ミズホ)・エンパイア(サミー)・ オリンピア7(オリンピア)といった、いわゆる「0号機」世代の台が動いていた。 各社がそれぞれ独自の規格でパチスロを作っていた最後の時代——翌1985年、 「パチスロ1号機」という統一規格が生まれ、業界のルールが一変する。1984年は、 その直前の、まだ何も決まっていなかった時代の一年だった。エンパイアはレバーが 右側についた変わった構造の一台だったが、あまりに記録が乏しく、2025年7月には サミー自身が「創業機の実機の所在が分からない」として、33.1万円での買い取りを 掲げた捜索キャンペーンを行っている。40年前の1台がメーカーにとってさえ 「幻の機種」になってしまうというのは、この時代の記録の残りにくさを物語っている。
SANKYOの台の中では、マリンシェルターが特に興味深い一台だった。当時、 出玉規制が全国で最も厳しかった千葉県向けに開発された電役機で、中央入賞口に 玉が入ると羽根が15秒または10個入賞するまで開放し、その下のチャッカーに 入賞すると盤面最下部の3個のチューリップが一斉に開放するという仕組みを持つ。 大当りのラウンド継続がない「おとなしい機種」で、通常時のチューリップ開放による 玉持ちの確保が重要な、地域の規制に合わせて作り込まれた一台だった。
もしも明日が…。 / わらべ ── 年間1位・97.0万枚。1983年12月21日発売、わらべ最大のヒット曲。動画はTV ASAHI MUSIC公式チャンネルより。
ワインレッドの心 / 安全地帯 ── 年間2位・71.4万枚。安全地帯にとって初のオリコン1位獲得曲。作詞・井上陽水、作曲・玉置浩二。
Rock'n Rouge / 松田聖子 ── 年間3位・67.4万枚。1984年2月1日発売、16枚目のシングル。カネボウ化粧品のCMソングだった。
涙のリクエスト / チェッカーズ ── 年間4位・67.2万枚。1984年1月21日発売、チェッカーズ初のヒット曲。この年、同時に3曲がベストテン入りする社会現象に。
哀しくてジェラシー / チェッカーズ ── 年間5位・66.2万枚。1984年5月1日発売、3枚目のシングルにしてバンド初のオリコン1位。
十戒(1984) / 中森明菜 ── 年間6位。1984年7月25日発売、9枚目のシングル。『ザ・ベストテン』初登場1位を記録。動画は同年12月31日のNHK紅白歌合戦での映像。
娘よ / 芦屋雁之助 ── 年間7位。俳優・芦屋雁之助が歌う人情歌謡曲で、お笑いタレントの歌謡曲としては異例のヒットとなった。
星屑のステージ / チェッカーズ ── 年間8位。この年、チェッカーズは「涙のリクエスト」「哀しくてジェラシー」と合わせて年間トップ10に3曲を送り込む社会現象になっていた。動画はThe Checkers - Topic公式チャンネルより。
北ウイング / 中森明菜 ── 年間9位。1984年2月1日発売、8枚目のシングル。動画はNHK『レッツゴーヤング』でのライブ映像(Warner Music Japan公式)。
サザン・ウインド / 中森明菜 ── 年間10位。1984年5月21日発売、10枚目のシングル。この年、中森明菜は「十戒」「北ウイング」「サザン・ウインド」の3曲を年間トップ10に送り込んでいる。動画はNHK『レッツゴーヤング』でのライブ映像(Warner Music Japan公式)。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
1984年は現存する実戦動画の資料が非常に乏しい時代です。個別に見つかった動画はロイヤルキングの1本のみでした。それ以外の機種も、SANKYO公式アーカイブやメーカー自身の記録を当たり、わかっている事実だけを正直にまとめています。この年に記録が残っている全8機種を紹介します。
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パチンコ ─ 羽根モノ
チューリップ式権利物に分類される「羽根物」の一台。翌1985年には後継とみられる『ロイヤルキング'85』が登場しており、シリーズの初代にあたる可能性が高い。動画は個人の方が投稿したレトロパチンコ実戦記録(埋め込み制限のため外部リンク)。
当時、出玉規制が全国で最も厳しかった千葉県向けに開発された電役機。センター役物「マリンシェルター」の中央入賞口に玉が入ると羽根が15秒または10個入賞するまで開放し、役物下のチャッカーに入賞すると盤面最下部の3個のチューリップが一斉に開放する仕組み。大当たりのラウンド継続がない「おとなしい機種」で、通常遊技中のチューリップ開放による玉持ちの確保が重要だった。
1984年春に登場した普通機。10カウントのチューリップ式で、実質的に一発台として使われた。1回の大当りで数千発規模の払い出しがあったとされ、設置許可は東京都など一部の県のみに限られた地域限定機だった。1985年末の規則改正にともなって姿を消していった。のちにサミーのパチスロで有名になる『アラジンチャンス』とは無関係の同名機。
賞球数ALL13のSANKYO機。SANKYO公式のアーカイブにも画像や役物の詳細説明が残っておらず、機種名と年式のみが確認できる、記録の乏しい一台。
賞球数ALL13のSANKYO機。SANKYO公式のアーカイブでも「noimage」表示のままで、盤面デザインや役物の詳細は現在も確認できていない一台。
レバーが右側についた、当時としては変わった構造の0号機。一度大当りを引けば終了まで持っていける「一発タイプ」の挙動で知られた。2025年7月、サミー自身が創業機である本機の現存個体を確認できていないとして、33.1万円での買い取りを掲げた捜索キャンペーンを実施している。発売年は資料により1982年説もあり要確認。
1981年9月開催の「オリンピアマシンショー」で発表された初期パチスロ群の一台(同時期に『パチスロナイト』『ロイヤルスター』『アメリカーナ』なども登場)。1985年の1号機制度より前の0号機世代で、正確な発売年は資料により差があり要確認。
0号機世代の一台。発売年は資料により1982年(昭和57年)説もあり要確認。
1984年は、「新語・流行語大賞」が始まった年でもある。記念すべき第一回、「新語」部門の金賞に選ばれたのは「オシンドローム」。前年から放送されていたNHK連続テレビ小説『おしん』が平均視聴率52.6%、最高62.9%という歴代最高記録を叩き出し、その社会現象ぶりがそのまま流行語になった。夏には7月28日から8月12日まで開催されたロサンゼルス五輪で、日本は金10・銀8・銅14、合計32個のメダルを獲得している。
街のファッションでは、「黒の衝撃」がひとつのピークを迎えていた年でもある。1981年のパリ・コレクションで川久保玲(コム デ ギャルソン)と山本耀司が発表した黒ずくめの服が「東洋から来た衝撃」として評判になり、フォーマルの場でも黒い服を着る若者が現れて「カラス族」と呼ばれた。ワイズやコム デ ギャルソンといったDCブランドが、それまで喪服の色でしかなかった黒のイメージを塗り替え、若者の価値観そのものを変えていった時代だった。ブームが最盛期を迎えるのはこの2年後、1986年のことになる。
本屋の棚では、まだ誰も気づいていない変化が起きていた。11月20日発売の『週刊少年ジャンプ』51号で、鳥山明の新連載『ドラゴンボール』がひっそりと始まったのだ。のちに世界的な作品になるこの漫画も、この時点ではジャンプの数ある新連載のひとつに過ぎなかった。テレビでは前年に連載が始まった『北斗の拳』のアニメ版がこの年フジテレビで放送を開始。そしてお茶の間には、11月8日発売のファミコン版『ゼビウス』が到来する。売上は約127万本。単なる移植ゲームを超えて、ファミコンというハード自体をお茶の間に定着させる原動力になった一本だった。
ゲームセンターでは、7月20日にナムコが『ドルアーガの塔』を稼働開始。迷路の中に隠されたアイテムを条件をそろえて出現させる、いわゆる「宝箱システム」を持つこのゲームは、攻略情報を求めるプレイヤー同士の口コミやゲーム雑誌の情報交換を活発化させ、のちの攻略本文化のさきがけのひとつになった。ファミコンとアーケード、どちらの遊びも、まだお互いに主役を譲り合っていた時代である。
1984年(昭和59年)1月 TVCM集 ── その年に流れていたCMをまとめた懐かしのテレビ映像。当時の商品・ファッション・空気感がそのまま残っている。
ナムコ ミュージアム オブ アート 第11回『ドルアーガの塔』(1984年) ── バンダイナムコスタジオ公式チャンネルによる紹介映像。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
1984年という年を語るうえで避けて通れないのが、この年に始まった一連の企業脅迫事件、通称グリコ・森永事件である。犯人が名乗った「かい人21面相」という名前とともに、事件は翌1985年まで日本中を落ち着かない空気で包み続けた。ここでは、憶測を避け、確認できる事実だけを時系列でまとめる。
この事件は結局、犯人グループの正体がわからないまま、1985年8月に「終息宣言」が届いたのを最後に沈静化していく。2000年2月、公訴時効の成立によって全事件が「完全犯罪」として法的に決着し、警察庁広域重要指定事件としては初めての未解決事件となった。ホールの灯りが変わらず点いていた裏側で、日本社会全体がこれほど落ち着かない一年を過ごしていた——それが1984年という年だった。
この年、あなたはどこで何をしていましたか。