第一章
変わり目の手前で ── 1984年のホール
1984年のホールは、まだ手打ちから電動式ハンドルへ切り替わっていく途中の空気を残していた。
1973年に電動式ハンドルが認可されてから10年あまり、少しずつ主流が入れ替わっていく最中である。
貸玉料金は1979年に定められた1玉4円のまま、この年も変わらなかった。店内には軍艦マーチが
鳴り響き、それが当たり前の音として受け止められていた時代——分煙も禁煙も、まだ遠い未来の話だった。
この年、SANKYOはパラソル・マリンシェルター・ロイヤルキング・コンドルS
といった台をラインアップに並べていた。翌1985年には『ロイヤルキング'85』という後継とみられる
機種も登場しており、シリーズの初代がこの年にあたる可能性が高い。一方、マルホン工業からは
『アラジン』という普通機が春に登場する。10カウントのチューリップ式で、実質的には
一発台のような大量出玉を叩き出す一台だった。ただし、この手の大量出玉は長くは続かない。
翌1985年末の規則改正で、こうした台は姿を消していくことになる。
パチスロの世界では、アドバンス(ミズホ)・エンパイア(サミー)・
オリンピア7(オリンピア)といった、いわゆる「0号機」世代の台が動いていた。
各社がそれぞれ独自の規格でパチスロを作っていた最後の時代——翌1985年、
「パチスロ1号機」という統一規格が生まれ、業界のルールが一変する。1984年は、
その直前の、まだ何も決まっていなかった時代の一年だった。エンパイアはレバーが
右側についた変わった構造の一台だったが、あまりに記録が乏しく、2025年7月には
サミー自身が「創業機の実機の所在が分からない」として、33.1万円での買い取りを
掲げた捜索キャンペーンを行っている。40年前の1台がメーカーにとってさえ
「幻の機種」になってしまうというのは、この時代の記録の残りにくさを物語っている。
SANKYOの台の中では、マリンシェルターが特に興味深い一台だった。当時、
出玉規制が全国で最も厳しかった千葉県向けに開発された電役機で、中央入賞口に
玉が入ると羽根が15秒または10個入賞するまで開放し、その下のチャッカーに
入賞すると盤面最下部の3個のチューリップが一斉に開放するという仕組みを持つ。
大当りのラウンド継続がない「おとなしい機種」で、通常時のチューリップ開放による
玉持ちの確保が重要な、地域の規制に合わせて作り込まれた一台だった。
電動ハンドルへの切り替えが進み、規則の大改正はまだ翌年。
1984年は、変わり目の手前で立ち止まっていたような一年だった。
第二章
ホールの中で、世の中で
2月
─
1日、松田聖子「Rock'n Rouge」発売(カネボウ化粧品CMソング)
3月
─
18日、江崎グリコ社長誘拐。かい人21面相を名乗るグリコ・森永事件はじまる
5月
─
1日、チェッカーズ「哀しくてジェラシー」発売、バンド初のオリコン1位
7月
─
25日、中森明菜「十戒(1984)」発売/28日、ロサンゼルス五輪開幕(〜8月12日、日本は金10・銀8・銅14)
11月
8日、ファミコン版『ゼビウス』発売——売上約127万本
20日発売の『週刊少年ジャンプ』51号でドラゴンボール連載開始
通年
パラソル、マリンシェルター、ロイヤルキング、コンドルS(SANKYO)/アラジン(マルホン工業)/パチスロはアドバンス(ミズホ)、エンパイア(サミー)、オリンピア7(オリンピア) ほか計19機種
新語・流行語大賞スタート、金賞は「オシンドローム」(NHK朝ドラ『おしん』平均視聴率52.6%)/『北斗の拳』アニメ化
第三章
この年の音 ── 1984年のヒット曲/オリコン年間シングルランキングTOP10
もしも明日が…。 / わらべ ── 年間1位・97.0万枚。1983年12月21日発売、わらべ最大のヒット曲。動画はTV ASAHI MUSIC公式チャンネルより。
ワインレッドの心 / 安全地帯 ── 年間2位・71.4万枚。安全地帯にとって初のオリコン1位獲得曲。作詞・井上陽水、作曲・玉置浩二。
Rock'n Rouge / 松田聖子 ── 年間3位・67.4万枚。1984年2月1日発売、16枚目のシングル。カネボウ化粧品のCMソングだった。
涙のリクエスト / チェッカーズ ── 年間4位・67.2万枚。1984年1月21日発売、チェッカーズ初のヒット曲。この年、同時に3曲がベストテン入りする社会現象に。
哀しくてジェラシー / チェッカーズ ── 年間5位・66.2万枚。1984年5月1日発売、3枚目のシングルにしてバンド初のオリコン1位。
十戒(1984) / 中森明菜 ── 年間6位。1984年7月25日発売、9枚目のシングル。『ザ・ベストテン』初登場1位を記録。動画は同年12月31日のNHK紅白歌合戦での映像。
娘よ / 芦屋雁之助 ── 年間7位。俳優・芦屋雁之助が歌う人情歌謡曲で、お笑いタレントの歌謡曲としては異例のヒットとなった。
星屑のステージ / チェッカーズ ── 年間8位。この年、チェッカーズは「涙のリクエスト」「哀しくてジェラシー」と合わせて年間トップ10に3曲を送り込む社会現象になっていた。動画はThe Checkers - Topic公式チャンネルより。
北ウイング / 中森明菜 ── 年間9位。1984年2月1日発売、8枚目のシングル。動画はNHK『レッツゴーヤング』でのライブ映像(Warner Music Japan公式)。
サザン・ウインド / 中森明菜 ── 年間10位。1984年5月21日発売、10枚目のシングル。この年、中森明菜は「十戒」「北ウイング」「サザン・ウインド」の3曲を年間トップ10に送り込んでいる。動画はNHK『レッツゴーヤング』でのライブ映像(Warner Music Japan公式)。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
第四章
この年の台
1984年は現存する実戦動画の資料が非常に乏しい時代です。個別に見つかった動画はロイヤルキングの1本のみでした。それ以外の機種も、SANKYO公式アーカイブやメーカー自身の記録を当たり、わかっている事実だけを正直にまとめています。この年に記録が残っている8機種を紹介します。
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パチンコ ─ 羽根モノ
ロイヤルキング
SANKYO
羽根モノの一台。翌1985年には後継とみられる『ロイヤルキング'85』が登場しており、シリーズの初代にあたる可能性が高い。動画は個人の方が投稿したレトロパチンコ実戦記録(埋め込み制限のため外部リンク)。
調べたこと
羽根モノなので大当り確率という項目がない。賞球はオール13。羽根の開閉は落とし入賞で1回、センター入賞で2回。大当り中は9個のカウントか最大8回の継続で終了する(3情報源一致)。1982年の名機「キングスター」の後継機で、キングスターの不規則なランダム開放と違い、羽根が規則的に開閉するのが最大の特徴。※翌1985年の「ロイヤルキング'85」は別機種。
パチンコ
マリンシェルター
SANKYO
当時、出玉規制が全国で最も厳しかった千葉県向けに開発された電役機。センター役物「マリンシェルター」の中央入賞口に玉が入ると羽根が15秒または10個入賞するまで開放し、役物下のチャッカーに入賞すると盤面最下部の3個のチューリップが一斉に開放する仕組み。大当たりのラウンド継続がない「おとなしい機種」で、通常遊技中のチューリップ開放による玉持ちの確保が重要だった。
調べたこと
賞球はオール13(1情報源のみ)。機種タイプと役物の動きは資料が見つかっていない。パチンコビレッジの過去機種データベースに収録がなく、Wikipediaにも記事がない。年とメーカーはSANKYO公式の機種年表で確認できている。
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パチンコ ─ 普通機
アラジン
マルホン工業(春)
1984年春に登場した普通機。10カウントのチューリップ式で、実質的に一発台として使われた。1回の大当りで数千発規模の払い出しがあったとされ、設置許可は東京都など一部の県のみに限られた地域限定機だった。1985年末の規則改正にともなって姿を消していった。のちにサミーのパチスロで有名になる『アラジンチャンス』とは無関係の同名機。
調べたこと
普通機なので大当り確率という項目がない。賞球はオール13(2情報源一致)。10回開きチューリップが要で、天の入賞口に入るとチューリップが開放し、盤面中央下部の入賞口へ玉が流れやすくなる。この入賞口に入ると下部のチューリップ群が開く。実態はほぼ一発台として運用され、設置許可は東京都など関東の数県に限られた。1985年末頃の規制で撤去されるか普通機に改造された。※ニイガタ電子精機のパチスロ「アラジン」(1989年)とは全くの別物。
パチンコ
パラソル
SANKYO
賞球数ALL13のSANKYO機。SANKYO公式のアーカイブにも画像や役物の詳細説明が残っておらず、機種名と年式のみが確認できる、記録の乏しい一台。
調べたこと
賞球はオール13(1情報源のみ)。機種タイプと役物の動きは資料が見つかっていない。パチンコビレッジの過去機種データベースに収録がない。年とメーカーはSANKYO公式の機種年表で確認できている。
パチンコ
コンドルS
SANKYO
賞球数ALL13のSANKYO機。SANKYO公式のアーカイブでも「noimage」表示のままで、盤面デザインや役物の詳細は現在も確認できていない一台。
調べたこと
賞球はオール13(1情報源のみ)。機種タイプと役物の動きは資料が見つかっていない。※奥村遊機の「コンドル」(1983年頃・一発台)、SANKYOの「コンドルⅠ」(1990年秋・一発台)は別機種で、末尾の「S」が識別子になっている。
パチスロ ─ 0号機
エンパイア年 要確認
サミー
レバーが右側についた、当時としては変わった構造の0号機。一度大当りを引けば終了まで持っていける「一発タイプ」の挙動で知られた。2025年7月、サミー自身が創業機である本機の現存個体を確認できていないとして、33.1万円での買い取りを掲げた捜索キャンペーンを実施している。発売年は資料により1982年説もあり要確認。
調べたこと
アール(曲面)のついた前面ガラスと、ラチェット式で右側についたレバーが特徴。兄弟機に「チャンピオン」「フラッシュクイーン」がある。※発売は1982年で、この年に置いてあるのは誤り(2情報源一致)。当時の名義はサミー工業。
パチスロ ─ 0号機
アドバンス年 要確認
ミズホ
1981年9月開催の「オリンピアマシンショー」で発表された初期パチスロ群の一台(同時期に『パチスロナイト』『ロイヤルスター』『アメリカーナ』なども登場)。1985年の1号機制度より前の0号機世代で、正確な発売年は資料により差があり要確認。
調べたこと
ユニバーサル販売の「アメリカーナ・ボーナスウィン」の兄弟機とされる。それ以外の数値・詳細は見つかっていない。※出典の年表記は「1981〜1984」で、これは稼働期間の推定。この年はその末尾を拾ったとみられ、他の機種と拾い方が逆になっている。メーカー表記も資料により瑞穂製作所とユニバーサルで食い違う。
パチスロ ─ 0号機
オリンピア7年 要確認
オリンピア
0号機世代の一台。発売年は資料により1982年(昭和57年)説もあり要確認。
調べたこと
昭和57年(1982年)に登場したアップライト型マシン。昭和55年の「スーパーオリンピア」に続く機種で、これによりオリンピアは沖縄のパチスロメーカーとしての地位を確立した。※発売は1982年で、この年に置いてあるのは誤り(2情報源一致)。
動画のない機種は、1機種ずつ探したうえで見つからなかったものです。
全機種一覧
1984年に導入された19機種を、導入月の順に並べています。種別ボタンで絞り込めます。
読み込み中…
年表でも同じ一覧を見られます。 1984年の全機種を年表で見る →
第五章
あの頃の空気 ── 黒の衝撃と、ジャンプの片隅で
1984年は、「新語・流行語大賞」が始まった年でもある。記念すべき第一回、「新語」部門の金賞に選ばれたのは「オシンドローム」。前年から放送されていたNHK連続テレビ小説『おしん』が平均視聴率52.6%、最高62.9%という歴代最高記録を叩き出し、その社会現象ぶりがそのまま流行語になった。夏には7月28日から8月12日まで開催されたロサンゼルス五輪で、日本は金10・銀8・銅14、合計32個のメダルを獲得している。
街のファッションでは、「黒の衝撃」がひとつのピークを迎えていた年でもある。1981年のパリ・コレクションで川久保玲(コム デ ギャルソン)と山本耀司が発表した黒ずくめの服が「東洋から来た衝撃」として評判になり、フォーマルの場でも黒い服を着る若者が現れて「カラス族」と呼ばれた。ワイズやコム デ ギャルソンといったDCブランドが、それまで喪服の色でしかなかった黒のイメージを塗り替え、若者の価値観そのものを変えていった時代だった。ブームが最盛期を迎えるのはこの2年後、1986年のことになる。
本屋の棚では、まだ誰も気づいていない変化が起きていた。11月20日発売の『週刊少年ジャンプ』51号で、鳥山明の新連載『ドラゴンボール』がひっそりと始まったのだ。のちに世界的な作品になるこの漫画も、この時点ではジャンプの数ある新連載のひとつに過ぎなかった。テレビでは前年に連載が始まった『北斗の拳』のアニメ版がこの年フジテレビで放送を開始。そしてお茶の間には、11月8日発売のファミコン版『ゼビウス』が到来する。売上は約127万本。単なる移植ゲームを超えて、ファミコンというハード自体をお茶の間に定着させる原動力になった一本だった。
ゲームセンターでは、7月20日にナムコが『ドルアーガの塔』を稼働開始。迷路の中に隠されたアイテムを条件をそろえて出現させる、いわゆる「宝箱システム」を持つこのゲームは、攻略情報を求めるプレイヤー同士の口コミやゲーム雑誌の情報交換を活発化させ、のちの攻略本文化のさきがけのひとつになった。ファミコンとアーケード、どちらの遊びも、まだお互いに主役を譲り合っていた時代である。
この年の顔
その年のCMには、当時よく見た顔がそのまま映っている。街の記録や、公式チャンネルに残っている映像とあわせて。
1984年(昭和59年)1月 TVCM集 ── その年に流れていたCMをまとめた懐かしのテレビ映像。当時の商品・ファッション・空気感がそのまま残っている。
ナムコ ミュージアム オブ アート 第11回『ドルアーガの塔』(1984年) ── バンダイナムコスタジオ公式チャンネルによる紹介映像。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
第六章
グリコ・森永事件 ── かい人21面相の一年
1984年という年を語るうえで避けて通れないのが、この年に始まった一連の企業脅迫事件、通称グリコ・森永事件である。犯人が名乗った「かい人21面相」という名前とともに、事件は翌1985年まで日本中を落ち着かない空気で包み続けた。ここでは、憶測を避け、確認できる事実だけを時系列でまとめる。
3月18日
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兵庫県西宮市の実母宅で、江崎グリコ社長・江崎勝久が何者かに拉致される。犯人は現金10億円と金塊100kgを要求
3月21日
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大阪府茨木市の新幹線車両基地近くで江崎社長が保護される
4月2日
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江崎宅に現金6000万円を要求する脅迫状が届く
4月10日
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大阪市西淀川区の江崎グリコ本社が放火され、試作室約150㎡が全焼
4月23日
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1億2000万円を要求する脅迫状が届く。この頃から犯人が「かい人21面相」を名乗り始める
5月10日
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新聞社4社に「青酸入りグリコ製品をばらまく」とする挑戦状が届き、記事化。江崎グリコ製品が店頭から撤去され、工場も操業停止に追い込まれる
9月12日
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今度は森永製菓に「1億円出さなければ青酸入り菓子を置く」とする脅迫状が届く
10月7〜13日
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大阪・京都・兵庫・愛知の店頭で、実際に青酸入りとみられる森永製品13個が発見される
11月7日
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ハウス食品に1億円を要求。現金受け渡しの現場で「キツネ目の男」が目撃されるも取り逃がす
12月7日
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不二家にも脅迫状が届き、標的は複数の食品会社に拡大していく
この事件は結局、犯人グループの正体がわからないまま、1985年8月に「終息宣言」が届いたのを最後に沈静化していく。2000年2月、公訴時効の成立によって全事件が「完全犯罪」として法的に決着し、警察庁広域重要指定事件としては初めての未解決事件となった。ホールの灯りが変わらず点いていた裏側で、日本社会全体がこれほど落ち着かない一年を過ごしていた——それが1984年という年だった。
第七章
数字で見る1984
97.0万枚「もしも明日が…。」(わらべ)のオリコン売上枚数。1984年最大のヒット曲
127万本ファミコン版『ゼビウス』(11月8日発売)の売上本数。ファミコン普及の起爆剤に
4円貸玉料金。1979年から据え置き、この後も長く変わらない
135,800円1984年の大卒初任給
170円『週刊少年ジャンプ』1冊の値段。11月20日発売の51号で『ドラゴンボール』連載開始
100円缶ジュース1本の価格の目安
33.1万円2025年、サミーが自社創業機「エンパイア」の実機捜索に掲げた買い取り額
32個ロサンゼルス五輪での日本の獲得メダル数(金10・銀8・銅14)
19機種この年に記録として残っているパチンコ・パチスロの数