特集 ─ 昭和55年
1980
デジパチが、
産声を上げた年。
1月16日、来日中のポール・マッカートニーが成田空港で大麻所持容疑のまま逮捕された。7月19日、モスクワ五輪が開幕するも、日本は西側諸国とともにボイコット。12月8日には、ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で射殺される。世界が揺れ動いたこの年、ホールの中でも静かに、しかし決定的な出来事が起きていた。7月、三共が新型パチンコ『フィーバー』を発売する。中央のドラムが回転し、絵柄とデジタルの『7』が揃えば大当り——発売当初、この台は市場にほとんど受け入れられなかった。転機は12月21日。新潟県長岡市のパチンコ店『白鳥』が一夜で123台を一気に設置すると、立ち見が出るほどの客が殺到した。ここから『フィーバー』は全国のホールへ広がり、以後のパチンコの基本形——いわゆるデジパチ——を決定づけていくことになる。
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第一章
フィーバー前夜、ホールの中で
1980年当時のホールは、まだ一般機・羽根モノが主役の時代だった。大当りが出ると店員がマイクで
「◯番台のお客様、本日◯回目の大当たりおめでとうございます!」と読み上げ、「ジャンジャンバリバリお出しください」
と煽る店内アナウンスが飛び交う——そんな空気が、この頃から長く続いていく。この年、パチンコ景品の最高金額は
2,500円に引き上げられ、遊技の枠組みも少しずつ姿を変えつつあった。
パチスロの世界でも、静かに黎明期が始まっていた。8月、北電子が『モンスター』を発売。ユニバーサルの
『アメリカーナ』、尚球社の『パチスロパルサー』『パチスロナイト』、オリンピアの『スーパーオリンピア』、
そして北電子公式アーカイブでは未発売と記される『ウルトラ80』——名簿上はこの年だけでスロット6機種が並ぶ。
パチンコ店の島枠に収まる筐体を模索する、いわゆる0号機時代のはじまりである。パチスロが1号機制度で
正式に整備されるのは、まだこの5年後、1985年のことだ。
そして7月、三共が新しいパチンコ台を市場に送り出す。中央のドラムが回り、『7』の絵柄が揃えば大当り——
この時点では、まだ誰もこれが業界の形を変えるとは思っていなかった。
第二章
ホールの中で、世の中で
1月
─
16日、来日中のポール・マッカートニーが成田空港で大麻所持容疑のまま逮捕
5月
─
22日、ナムコ『パックマン』のロケーションテストが行われる
7月
フィーバー(三共)——初のデジパチ。発売当初はまだ市場にほとんど受け入れられていなかった
パックマン正式稼働/19日、バンダイ「1/144 ガンダム」(ガンプラ第1弾)発売/19日、モスクワ五輪開幕、日本は西側諸国とともにボイコット
12月
21日、新潟県長岡市のパチンコ店『白鳥』がフィーバーを一夜で123台設置——立ち見が出るほどの客が殺到
8日、ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で射殺される/12日、日本の自動車生産台数が世界第1位に
通年
フィーバー(三共)+0号機スロット6機種——アメリカーナ/パチスロパルサー/パチスロナイト/モンスター/スーパーオリンピア/ウルトラ80(未発売)。名簿上計107機種(パチンコ101・パチスロ6)
漫才ブーム(THE MANZAI)が全国に広がる/ドラマ『3年B組金八先生』第2シリーズ平均視聴率39.9%/ルービックキューブ流行
第三章
この年の音 ── 1980年のヒット曲/オリコン年間シングルランキングTOP10
ダンシング・オールナイト / もんた&ブラザーズ ── 年間1位・156.3万枚。ハスキーな絶叫ボーカルで一世を風靡した、もんたよしのりのデビューヒット。
異邦人 / 久保田早紀 ── 年間2位・140.4万枚。1979年10月発売のデビュー曲。シルクロードを思わせる異国情緒あふれる旋律が話題を呼んだ。
大都会 / クリスタルキング ── 年間3位・118.1万枚。田中昌之の高音シャウトが衝撃的だった、1979年11月発売のデビュー曲。
ランナウェイ / シャネルズ ── 年間4位・97.5万枚。2月25日発売のデビュー曲。黒塗りメイクの5人組は、のちに『ラッツ&スター』と改名する。
順子 / 長渕剛 ── 年間5位・93.9万枚。6月5日発売。荒々しい歌声とストレートな詞で若者たちの支持を集めた。
贈る言葉 / 海援隊 ── 年間6位・93.3万枚。ドラマ『3年B組金八先生』の主題歌として広く知られる、武田鉄矢作詞の一曲。
おまえとふたり / 五木ひろし ── 年間7位・84.7万枚。演歌の貫禄を見せた五木ひろしのヒット曲。
別れても好きな人 / ロス・インディオス&シルヴィア ── 年間8位・76.9万枚。デュエット曲として長く歌い継がれる、ムード歌謡の名曲。
さよなら / オフコース ── 年間9位・71.7万枚。小田和正が作詞作曲した、1979年12月発売の17thシングル。
哀愁でいと / 田原俊彦 ── 年間10位・69.9万枚。田原俊彦のデビューシングルで、この年から始まるアイドル黄金期の先駆けとなった。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。売上枚数はオリコン公式の集計値そのものではなく、ファンサイトの集計をもとにした目安です。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
第四章
この年の台
名簿上の1980年機種は計107機種(パチンコ101・パチスロ6)。うち資料の残る7機種(パチンコ1・パチスロ6)を主役カードにした。残りは年表側の一覧に載せている。
1980年代前半は実機実戦の公開動画が極めて少なく、各機種について個別に検索したうえで
見つからなかった事実を正直に記している(無理に別機種の映像を当てはめない)。
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パチンコ ─ デジパチ
フィーバー
三共(7月)
スタート入賞口で中央ドラムが回転し、絵柄『7(太陽)』3つとデジタル『7』が揃えば大当り。大入賞口30秒開放・V通過でラウンド継続(上限なし)、確率約1/250。発売当初は不人気だったが、12月21日・長岡『白鳥』の一夜123台設置をきっかけに全国へ広がり、販売開始から約3ヶ月で約35万台規模に達したとされる。デジパチの原型。SANKYO公式「もう一度打ちたい!」系にも初代単体の映像は見当たらず、今回はテキストのみ。
調べたこと
賞球数はオール15。SANKYOのデジパチ第1号機で、中央のドラムが揃うと下部の大入賞口が開く「フィーバー」方式をはじめて世に出した。
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パチスロ ─ 0号機
モンスター
北電子(8月)
北電子公式アーカイブに「0号機 モンスター/1980年8月発売」と明記される同社の市販デビュー機。約16年後の『ジャグラー』との直接的な技術系譜は資料上確認できていない(北電子製という共通点のみ)。
調べたこと
0号機。北電子がパチスロに参入した最初の機種で、1980年8月発売(メーカー公式)。販売はパチンコメーカーの西陣が担当した(1情報源のみ)。役構成や払い出し枚数などの具体的な数値は資料が見つかっていない。
パチスロ ─ 0号機
ウルトラ80年 要確認
北電子
北電子公式アーカイブに『ウルトラ80(未発売)』と明記される幻の機体。slothistoryでは「初日電協発足後の販売スロ」として1980年枠に載るが、市販には至らなかった。動画は当然見つからない。
調べたこと
0号機として開発されたが、北電子の公式アーカイブスは「未発売」と明記している。箱型で、ステッピングモーターではなくメカ式を採用し、CPUで狙い打ち対策をしていたとされる。コイン投入口が自動販売機のような珍しい形状だった(1情報源のみ)。※メーカー自身が未発売としているため、この年に出た機種として扱ってよいか確認が必要。※別の資料は「昭和55年11月に認可を受けた箱型マシン」と書いており、公式の「未発売」と矛盾しない——1980年11月に認可は取ったが、ホールには1台も出なかったということになる。出典の「1980」という単年表記は、発売年ではなく認可年を指していたとみられる。単年表記でも発売年とは限らない例。
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パチスロ ─ 0号機
アメリカーナ
ユニバーサル
ステッピングモーターを採用した、ユニバーサル(現・ユニバーサルエンターテインメント)の初期パチスロ。パチンコ店の島枠に収まる筐体を模索していた黎明期の一台。のち『アメリカーナ15』『アメリカーナXX』『アメリカーナミント』へとブランドが続く起点。
調べたこと
0号機。ユニバーサルが回胴機事業に参入した最初のパチスロで、箱型(パチンコサイズ筐体)の先駆け。BIGボーナスとステッピングモーターを搭載した(年は3情報源一致)。ボーナスは「777」「BAR・BAR・BAR」「スイカ揃い」の三つ揃いで3ライン。触れるだけで反応するアースタッチ式ストップボタンを採用。初期版は単発で終わることがあり、後期は基板交換で一度ボーナスを引けば打ち止めまで取り切れるようになった。※年はユニバーサルエンターテインメントの公式沿革(「1980年『パチスロ アメリカーナ』発売、箱型回胴式遊技機の先駆け」)でも確認でき、メーカー公式で裏が取れている。
パチスロ ─ 0号機
パチスロパルサー
尚球社
パチンコ台の枠に設置できる筐体が確立し始める、いわゆる0号機時代を象徴する一台。開発には佐野慎一(のち山佐)らが関わったとされる記録もある。1985年の1号機制度より前の過渡期。
調べたこと
0号機。開発は山佐、販売は尚球社(2情報源一致)。パチンコ台の枠に収まる箱型筐体を初めて実現した機種とされ、以後のパチスロの標準サイズを決めた。大当りは出玉90枚のボーナスゲームで、店の打ち止めまで継続する。ボーナス図柄は「777」「BAR」「スイカ」、小役はベル・プラム・チェリー。「山佐パターン」と呼ばれる大量リーチ目の原点で、ホールにリーチ目表が張り出されていた。発売月は資料により4月と9月で割れている。※1980年9月18日に警察の認可を受けた、ステッピングモーターとCPUによるフラグ判別方式の国内初の箱型機。パチンコ台の枠にパチスロが収まるようになったのはこの機種からで、ホールへの導入の敷居が一気に下がった。開発は山佐、販売は尚球社。年は3つ以上の資料で一致している。
パチスロ ─ 0号機
パチスロナイト
尚球社
同年『パチスロパルサー』と同社の黎明期ライン。翌1981年9月のオリンピアマシンショーでは『パチスロナイト』名義での発表記録もあり、0号機から1号機制度へ向かう展示会史に名前が残る。実戦動画は見つからなかった。
調べたこと
「パチスロパルサー」と同時期に認可を受けた箱型マシン。パルサーと仕様は同じだが、こちらは尚球社のみが販売した。なおパルサーは山佐が開発し、1980年9月18日に警察庁の認可を受けた、ステッピングモーターとCPUによるフラグ判別方式の国内初の箱型機。※この機種自体の月日は不明で、年も1情報源と状況証拠による。
パチスロ ─ 0号機/アメパチ
スーパーオリンピア
オリンピア
いわゆる『アメパチ』(ゲームセンター向けスロットに近い形状)寄りの一台として名簿に残る。日電協発足(1980年11月)前後、パチンコ島枠サイズへの転換が始まる過渡期の機種群。詳しい役構成・実戦動画は公開資料では確認できなかった。
調べたこと
昭和55年(1980年)に登場したアップライト型マシン。オリンピアが沖縄からパチスロメーカーへ移行していく過程の機種で、昭和57年に後継機「オリンピア7」が出た(2情報源一致)。数値は見つかっていない。
動画のない機種は、1機種ずつ探したうえで見つからなかったものです。
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全機種一覧
1980年に導入された107機種を、導入月の順に並べています。種別ボタンで絞り込めます。
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第五章
あの頃の空気 ── ゲームセンターと漫才ブーム
ゲームセンターでは、この年新しい主役が現れた。5月22日にロケーションテストが行われたナムコの『パックマン』は、7月の正式稼働とともに全国のゲームセンターで爆発的な人気を獲得する。同じ7月19日には、バンダイが『1/144 ガンダム』──のちに『ガンプラ』と呼ばれるプラモデルの第一弾──を発売した。当時の価格は300円、パーツ数48点の白一色というシンプルなものだったが、発売直後はさほど話題にならなかったという。ガンプラが品切れ続出の社会現象になるのは、この半年〜1年ほどあとの1981年からのことだ。街ではこのほか、ルービックキューブも流行していた。
お茶の間では、笑いの空気が変わりつつあった。早口でたたみかける新しいスタイルの若手漫才師たちが脚光を浴び、フジテレビ『THE MANZAI』などをきっかけに、のちに『漫才ブーム』と呼ばれる現象が広がっていく。同じ年、TBS系ドラマ『3年B組金八先生』第2シリーズは平均視聴率39.9%という驚異的な数字を記録した。そして12月12日、日本の自動車生産台数がついに世界第1位になる──高度成長を経た日本が、ものづくりの分野で世界の頂点に立った年でもあった。
この年の顔
その年のCMには、当時よく見た顔がそのまま映っている。街の記録や、公式チャンネルに残っている映像とあわせて。
昭和55年(1980)11月のCMいろいろ ── 1980年11月に放送されていたテレビCMのアーカイブ映像。当時の商品・広告のトーンがそのまま残っている。
1980年のCM 7選 ── その年に流れていたテレビCMをまとめた懐かしの映像。アイドルやアニメなど、当時の話題を映すCMが並ぶ。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
第六章
デジパチ元年 ── 『フィーバー』、誕生。
7月、三共が新しいパチンコ『フィーバー』を発売した。スタート入賞口に球が入ると中央のドラムが回転し、絵柄の『7(太陽)』が3つ並び、かつドラム上のデジタル表示も『7』になれば大当り──中央下の大入賞口が30秒間開放される。数字とドラムの組み合わせで当たりを決めるという、今日まで続くデジパチの基本形が、この時点でほぼ完成していた。発売当初、ホール側の反応は鈍く、大量に球が出るこの新しい仕組みはなかなか受け入れられなかったという。
転機は同年12月21日に訪れる。新潟県長岡市、パチンコ店『白鳥』が、フィーバーを一夜で一気に123台設置した。すると立ち見が出るほどの客が殺到し、その熱狂はまたたく間に全国のホールへ伝わっていく。販売開始から約3ヶ月で約35万台規模に達したともされ、翌1981年にはフィーバータイプが全国で許可され、以後の市場の主役になっていった。一方で、大当りの興奮のあまり心臓発作で亡くなる客や、出玉欲しさの借金・強盗事件も相次ぎ、1981年には警察庁が規制の通達を出す事態にもなった。ひとつの台が、業界の形と、遊技のリスクの両方を同時に変えてしまった年だった。
1980年(昭和55年)7月 TVCM集 ── フィーバーが発売されたのと同じ、1980年7月に放送されていたテレビCMのアーカイブ映像。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
第七章
数字で見る1980
300円ガンプラ第1弾『1/144 ガンダム』の発売価格。1980年7月19日発売、パーツ数48点・白一色だった
123台『フィーバー』を一夜で設置した新潟県長岡市のパチンコ店『白鳥』の台数。1980年12月21日、立ち見が出るほどの客が殺到した
2,500円この年に引き上げられた、パチンコ景品の最高金額
世界第1位1980年12月12日、日本の自動車生産台数が世界一になった
107機種名簿上の1980年機種数(パチンコ101・パチスロ6。うちウルトラ80は北電子公式で未発売)
約35万台フィーバーが販売開始から約3ヶ月で達したとされる販売規模(公開資料の目安)
約1/250初代フィーバーの大当り確率の目安
約10万円1980年代前半、大卒初任給の目安
39.9%ドラマ『3年B組金八先生』第2シリーズの平均視聴率
1980年1月16日来日中のポール・マッカートニーが成田空港で大麻所持容疑のまま逮捕
1980年12月8日ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で射殺される