フィーバー
三共(7月)スタート入賞口に球が入ると中央のドラムが回転し、絵柄の『7(太陽)』とデジタル表示の『7』が揃えば大当り。発売当初は市場にほとんど受け入れられなかったが、12月21日、新潟県長岡市『白鳥』の一夜123台設置をきっかけに全国へ広がり、以後のデジパチの原型になった。
特集 ─ 昭和55年
1980
1月16日、来日中のポール・マッカートニーが成田空港で大麻所持容疑のまま逮捕された。7月19日、モスクワ五輪が開幕するも、日本は西側諸国とともにボイコット。12月8日には、ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で射殺される。世界が揺れ動いたこの年、ホールの中でも静かに、しかし決定的な出来事が起きていた。7月、三共が新型パチンコ『フィーバー』を発売する。中央のドラムが回転し、絵柄とデジタルの『7』が揃えば大当り——発売当初、この台は市場にほとんど受け入れられなかった。転機は12月21日。新潟県長岡市のパチンコ店『白鳥』が一夜で123台を一気に設置すると、立ち見が出るほどの客が殺到した。ここから『フィーバー』は全国のホールへ広がり、以後のパチンコの基本形——いわゆるデジパチ——を決定づけていくことになる。
← 思い出年表にもどる1980年当時のホールは、まだ一般機・羽根モノが主役の時代だった。大当りが出ると店員がマイクで 「◯番台のお客様、本日◯回目の大当たりおめでとうございます!」と読み上げ、「ジャンジャンバリバリお出しください」 と煽る店内アナウンスが飛び交う——そんな空気が、この頃から長く続いていく。この年、パチンコ景品の最高金額は 2,500円に引き上げられ、遊技の枠組みも少しずつ姿を変えつつあった。
パチスロの世界でも、静かに黎明期が始まっていた。8月、北電子が『モンスター』を発売。ユニバーサルの 『アメリカーナ』、尚球社の『パチスロパルサー』もこの年に登場し、パチンコ店の島枠に収まる筐体を模索する、 いわゆる0号機時代の一台として位置づけられている。パチスロが1号機制度で正式に整備されるのは、 まだこの5年後、1985年のことだ。
ダンシング・オールナイト / もんた&ブラザーズ ── 年間1位・156.3万枚。ハスキーな絶叫ボーカルで一世を風靡した、もんたよしのりのデビューヒット。
異邦人 / 久保田早紀 ── 年間2位・140.4万枚。1979年10月発売のデビュー曲。シルクロードを思わせる異国情緒あふれる旋律が話題を呼んだ。
大都会 / クリスタルキング ── 年間3位・118.1万枚。田中昌之の高音シャウトが衝撃的だった、1979年11月発売のデビュー曲。
ランナウェイ / シャネルズ ── 年間4位・97.5万枚。2月25日発売のデビュー曲。黒塗りメイクの5人組は、のちに『ラッツ&スター』と改名する。
順子 / 長渕剛 ── 年間5位・93.9万枚。6月5日発売。荒々しい歌声とストレートな詞で若者たちの支持を集めた。
贈る言葉 / 海援隊 ── 年間6位・93.3万枚。ドラマ『3年B組金八先生』の主題歌として広く知られる、武田鉄矢作詞の一曲。
おまえとふたり / 五木ひろし ── 年間7位・84.7万枚。演歌の貫禄を見せた五木ひろしのヒット曲。
別れても好きな人 / ロス・インディオス&シルヴィア ── 年間8位・76.9万枚。デュエット曲として長く歌い継がれる、ムード歌謡の名曲。
さよなら / オフコース ── 年間9位・71.7万枚。小田和正が作詞作曲した、1979年12月発売の17thシングル。
哀愁でいと / 田原俊彦 ── 年間10位・69.9万枚。田原俊彦のデビューシングルで、この年から始まるアイドル黄金期の先駆けとなった。
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1980年と資料上確認できたのは、この4機種のみ。いずれも実写動画の候補は見つからなかったため、今回はテキストでの紹介です。
スタート入賞口に球が入ると中央のドラムが回転し、絵柄の『7(太陽)』とデジタル表示の『7』が揃えば大当り。発売当初は市場にほとんど受け入れられなかったが、12月21日、新潟県長岡市『白鳥』の一夜123台設置をきっかけに全国へ広がり、以後のデジパチの原型になった。
パチスロ黎明期、北電子が発売した一台。同社は約16年後の1996年に『ジャグラー』シリーズを発売して看板シリーズとするが、モンスターとの直接的な技術系譜は資料上確認できていない(北電子製という共通点のみ)。
ステッピングモーターを採用した、ユニバーサル(現・ユニバーサルエンターテインメント)の初期のパチスロ。パチンコ店の島枠に収まる筐体を模索していた黎明期の一台。
パチンコ台の枠に設置できる筐体が確立し始める、いわゆる『0号機時代』を象徴する一台。1985年のパチスロ1号機制度よりも前の過渡期にあたる。
ゲームセンターでは、この年新しい主役が現れた。5月22日にロケーションテストが行われたナムコの『パックマン』は、7月の正式稼働とともに全国のゲームセンターで爆発的な人気を獲得する。同じ7月19日には、バンダイが『1/144 ガンダム』──のちに『ガンプラ』と呼ばれるプラモデルの第一弾──を発売した。当時の価格は300円、パーツ数48点の白一色というシンプルなものだったが、発売直後はさほど話題にならなかったという。ガンプラが品切れ続出の社会現象になるのは、この半年〜1年ほどあとの1981年からのことだ。街ではこのほか、ルービックキューブも流行していた。
お茶の間では、笑いの空気が変わりつつあった。早口でたたみかける新しいスタイルの若手漫才師たちが脚光を浴び、フジテレビ『THE MANZAI』などをきっかけに、のちに『漫才ブーム』と呼ばれる現象が広がっていく。同じ年、TBS系ドラマ『3年B組金八先生』第2シリーズは平均視聴率39.9%という驚異的な数字を記録した。そして12月12日、日本の自動車生産台数がついに世界第1位になる──高度成長を経た日本が、ものづくりの分野で世界の頂点に立った年でもあった。
昭和55年(1980)11月のCMいろいろ ── 1980年11月に放送されていたテレビCMのアーカイブ映像。当時の商品・広告のトーンがそのまま残っている。
1980年のCM 7選 ── その年に流れていたテレビCMをまとめた懐かしの映像。アイドルやアニメなど、当時の話題を映すCMが並ぶ。
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7月、三共が新しいパチンコ『フィーバー』を発売した。スタート入賞口に球が入ると中央のドラムが回転し、絵柄の『7(太陽)』が3つ並び、かつドラム上のデジタル表示も『7』になれば大当り──中央下の大入賞口が30秒間開放される。数字とドラムの組み合わせで当たりを決めるという、今日まで続くデジパチの基本形が、この時点でほぼ完成していた。発売当初、ホール側の反応は鈍く、大量に球が出るこの新しい仕組みはなかなか受け入れられなかったという。
転機は同年12月21日に訪れる。新潟県長岡市、パチンコ店『白鳥』が、フィーバーを一夜で一気に123台設置した。すると立ち見が出るほどの客が殺到し、その熱狂はまたたく間に全国のホールへ伝わっていく。翌1981年にはフィーバータイプが全国で許可され、以後の市場の主役になっていった。一方で、大当りの興奮のあまり心臓発作で亡くなる客や、出玉欲しさの借金・強盗事件も相次ぎ、1981年には警察庁が規制の通達を出す事態にもなった。ひとつの台が、業界の形と、遊技のリスクの両方を同時に変えてしまった年だった。
1980年(昭和55年)7月 TVCM集 ── フィーバーが発売されたのと同じ、1980年7月に放送されていたテレビCMのアーカイブ映像。
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