テレビパチンコ(テレパチマン)
西陣(2月)1977年2月、西陣がブラウン管を組み込んだ「テレパチマン」を発売し、一大ブームに。京楽・SANKYO・平和が追随したが、「打つことと見ることで視線が分かれる」との不評や故障の多さから、同年秋には西陣自身が盤面上部にテレビを載せる「パチカラー」へと方針転換した。9月には新規参入の東洋モナコが埼玉・熊谷のホールで試験設置を行っている。電動ハンドルは射幸心をあおるとして認められておらず、テレビパチンコもすべて手打ちだった。
特集 ─ 昭和52年
1977
9月3日、後楽園球場。王貞治が通算756号本塁打を放ち、ハンク・アーロンの持つメジャーリーグ記録を塗り替えた。 2日後の9月5日には、王貞治にその功績を称える賞が贈られている——のちに続く国民栄誉賞の記念すべき第1号である。 街では「渚のシンドバッド」のピンク・レディーが年間シングルチャートの上位を独占し、少女たちがその振り付けを 真似て踊っていた。ホールの中にも動きがあった。2月、西陣がブラウン管を組み込んだパチンコ台を売り出して 一大ブームを呼んだが、その熱は秋には早くも冷めていく。かわって存在感を増したのがSANKYOの『ブレンド』—— のちの『フィーバー』へとつながる仕組みを、この年すでに持っていた一台だった。貸玉料金はまだ1玉3円の時代である。
← 思い出年表にもどる1977年(昭和52年)、パチンコ店の貸玉料金はまだ1玉3円だった。1972年の改定以来続く相場で、 次の4円改定は翌年末を待つことになる。電動ハンドルは「射幸心をあおる」として認められておらず、 ホールの台はまだほとんどが手打ちのままだった。
そんな年の2月、西陣がブラウン管テレビを盤面に組み込んだ「テレパチマン」を発売し、 一夜にして大ブームを巻き起こす。打ちながらテレビ番組も見られるという発想は新鮮で、 京楽・SANKYO・平和も次々と追随機を投入した。だがその熱狂は長くは続かず、秋には早くも 失速していく——詳しくは第六章で振り返る。
かわって存在感を増したのが、SANKYOがこの年に送り出した『ブレンド』だった。 スロットのドラム表示と電動チャッカーを組み合わせ、大きな役が揃うと盤面のチューリップが 一斉に開く——のちの『フィーバー』へと直接つながる仕組みを、この一台がすでに持っていた。
渚のシンドバッド / ピンク・レディー ── 年間1位。6月10日発売、ピンク・レディー初のミリオンセラー。
青春時代 / 森田公一とトップギャラン ── 年間2位。作詞:阿久悠、作曲:森田公一。
ウォンテッド(指名手配) / ピンク・レディー ── 年間3位。9月5日発売、ピンク・レディー5枚目のシングル。
勝手にしやがれ / 沢田研二 ── 年間4位。作詞:阿久悠、作曲:大野克夫。第19回日本レコード大賞・大賞受賞曲。
昔の名前で出ています / 小林旭 ── 年間5位。動画は日本クラウン公式チャンネルの音源より。
雨やどり / さだまさし ── 年間6位。
カルメン'77 / ピンク・レディー ── 年間7位。3月10日発売、ピンク・レディー3枚目のシングル。
S・O・S / ピンク・レディー ── 年間8位。1976年11月発売だが、1977年のチャートでピンク・レディー初のオリコン1位を記録した。
失恋レストラン / 清水健太郎 ── 年間9位。1976年11月発売のデビュー曲。清水健太郎はこの年の日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞。
フィーリング / ハイ・ファイ・セット ── 年間10位。モーリス・アルバートの同名曲のカバー、日本語詞:なかにし礼。
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1970年代当時のパチンコ・パチスロの実写・実戦動画はYouTube上に見つかっていません。ここでは記録に残る機種の情報だけをまとめています。
1977年2月、西陣がブラウン管を組み込んだ「テレパチマン」を発売し、一大ブームに。京楽・SANKYO・平和が追随したが、「打つことと見ることで視線が分かれる」との不評や故障の多さから、同年秋には西陣自身が盤面上部にテレビを載せる「パチカラー」へと方針転換した。9月には新規参入の東洋モナコが埼玉・熊谷のホールで試験設置を行っている。電動ハンドルは射幸心をあおるとして認められておらず、テレビパチンコもすべて手打ちだった。
スロットのドラム表示と電動チャッカーを組み合わせ、大きな役が揃うと盤面のチューリップが一斉に開く仕組みを持つ一台。SANKYO公式サイトも「後のフィーバーの原型」と紹介している。ただしスロットの止めボタンを狙い撃ちされる弱点があり、寿命は短かったとされる。
関西サイズの手打ち機。基本形のほか「茜号オール10」「茜号電動式オール10」「茜号電動普通機」の3種があった。パチンコ博物館は「稼働していた最後の昭和の手打ち機」のひとつとしてこの機種を紹介している。
サーフィン・ダービー・ブレンド・茜らと並ぶ、SANKYOが1977年に送り出した一台。SANKYO公式アーカイブに記録が残るが、詳しい仕様は伝わっていない。
サーフィン・ユニバース・ブレンド・茜と同じ1977年にSANKYOが発売した一台。SANKYO公式アーカイブに記録が残るが、詳しい仕様は伝わっていない。
1977年、SANKYOが送り出した一台。同年発売のブレンド・茜・インベーダーらと並んで公式アーカイブに記録が残るが、詳細な仕様は不明。
1977年、SANKYOが送り出した一台。翌1978年に社会現象となるアーケードゲーム『スペースインベーダー』とは無関係で、それより1年早い命名にあたる。詳しい仕様の記録は乏しい。
1977年、SANKYOが送り出した一台。ブレンドや茜と並んで同社の記録に名前が挙がる同期の機種で、この年の空気を伝える一台。
1977年7月発売。筐体や主要部品には米国バリー社製スロットマシンが流用され、メダル3枚投入・5ライン制を国内に持ち込んだ。1960年代の「オリンピア」以来沈静化していた、いわゆる「アメリカンパチンコ(アメパチ)」人気を再燃させるきっかけになった一台。
1977年に記録が残る機種は、上に挙げた9機種すべてです。
この年、日本中が二つの熱狂に包まれていた。ひとつは巨人の王貞治。9月3日、対ヤクルト戦で通算756号本塁打を放ち、 ハンク・アーロンの持つメジャーリーグ記録を塗り替える。2日後の9月5日には福田赳夫首相からその功績を称える賞が 贈られた——のちに続く国民栄誉賞の記念すべき第1号である。もうひとつの熱狂は子どもたちの間で。1975年に 週刊少年ジャンプで始まった漫画『サーキットの狼』をきっかけに広がったスーパーカーブームがこの年ピークを迎え、 4月に東京・晴海で開かれた「スーパーカー・ワールド・フェイマスカー・コレクション'77」には4日間で46万人が 詰めかけた。ランボルギーニ・カウンタックやフェラーリ512BBを模したスーパーカー消しゴムを集めることが、 全国の小学生の共通言語になっていた。
音楽の街では、ピンク・レディーの年だった。「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」「カルメン'77」 「S・O・S」——年間シングルチャートTOP10に実に4曲を送り込み、振り付けを真似て踊る女の子たちが全国の校庭に あふれた。漫画では、少年ジャンプでこの年『リングにかけろ』が連載を開始。のちに『聖闘士星矢』を生む車田正美の 出世作であり、友情と根性を熱く描く少年漫画の型を作った一作だった。
【永久保存版】1977年(昭和52年)のテレビCMと1977年のテレビドラマ・アニメ・映画 ── その年に流れていたCMやドラマ・アニメをまとめた懐かしのアーカイブ映像。
1977年製のスーパーカー消しゴムを綺麗にクリーニング! ── 当時のスーパーカー消しゴム実物を紹介する動画。ブームの熱気がそのまま伝わってくる一本。
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ホールの中でも、この年は激動だった。2月、西陣が盤面にブラウン管テレビを組み込んだ「テレパチマン」を 発売すると、一夜にして大ブームが起きる。パチンコを打ちながらテレビ番組も見られるという発想は新しく、 京楽・SANKYO・平和といったライバルメーカーも次々と類似機種を投入した。9月には新興の東洋モナコという 会社まで参入し、埼玉県熊谷市のホールで試験設置を始めている。当時の規制では電動ハンドルは 「射幸心をあおる」として認められておらず、テレビパチンコもすべて手打ちのままだった。
ところが熱狂は長く続かなかった。「打つことと見ることで視線が分かれてしまう」という遊技者の不満に加え、 内蔵テレビの故障が相次いだ。秋には早くも西陣自身が、盤面の上にテレビを載せる「パチカラー」へと 軸足を移す。かわって存在感を増したのが、SANKYOがこの年に出した『ブレンド』だった。スロットのドラム 表示と電動チャッカーを組み合わせ、大きな役が揃うと盤面のチューリップが一斉に開く——のちの『フィーバー』 に直接つながる仕組みを、この一台がすでに持っていた。テレビパチンコは1979年ごろまでにほぼ姿を消し、 業界の関心はデジタル表示のパチスロ機へと移っていく。
この年、あなたはどこで何をしていましたか。