特集 ─ 昭和47年
1972
最後の、
手打ちの時代。
2月、札幌で冬季五輪が開かれ、同じ月にあさま山荘事件が世間を騒がせた。5月15日には沖縄が本土に復帰し、9月には日中国交正常化。その記念にと10月28日、ジャイアントパンダのカンカンとランランが上野動物園にやってきて、日本中が「パンダブーム」に沸いた。街では宮史郎とぴんからトリオの『女のみち』が鳴り続けていた──オリコン週間1位を16週連続で守り、この年と翌年、2年連続で年間1位となった記録的なヒット曲だ。ホールの中では11月15日、貸玉料金が1玉2円から3円へ値上がりし、新しいジャンル『アレンジボール』が認可された。そして1972年は、もうひとつ静かな節目でもあった──電動ハンドルが認可されるのは翌年のことで、この年はまだ、すべての台をレバーで打つ、最後の手打ちの時代だったのだ。
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第一章
手打ちの、最後の年
1972年11月15日、ホールの貸玉料金は1玉2円から3円へと値上がりした。同じ日、パチンコとは別ジャンルとして
『アレンジボール』が新たに認可される──玉を数字の受け皿に落とし、中央のランプを光らせ、縦・横・斜めの
ライン成立で配当が増える、従来のパチンコより技術介入の要素が強い遊技機だった。専門店ができるほどの
人気ジャンルに育っていく。
だがこの年、ホールの中でいちばん変わらなかったのは、じつは打ち方そのものだった。
電動式ハンドルが認可されるのは翌1973年のこと。1972年は、すべての台をレバーで弾く、
最後の「手打ち」の一年だったのである。全国のホール数は9,304軒(前年比89軒減)──
右肩上がりだった第2期黄金時代からは足踏みが続く時期で、機種の記録も乏しい。
SANKYOの手打ち機『吾妻』の名は資料にわずかに残るが、詳しい仕様を伝える記録はほとんど見つからない。
電動ハンドルはまだ無い。すべてが、腕とレバーだけで玉を弾いていた最後の一年──
それが1972年だった。
第二章
ホールの中で、世の中で
2月
─
3日〜13日、札幌冬季五輪/19日〜28日、あさま山荘事件
5月
─
10日「女のみち」(宮史郎とぴんからトリオ)発売/15日、沖縄が本土復帰
10月
─
28日、ジャイアントパンダのカンカン・ランランが上野動物園に到着
11月
15日、貸玉料金が1玉2円→3円に値上げ/新ジャンル「アレンジボール」認可
─
12月
─
3日、アニメ『マジンガーZ』放送開始(フジテレビ系)
通年
吾妻(SANKYO)
全国ホール数9,304軒(前年比89軒減)/『週刊少年チャンピオン』で『ドカベン』連載開始
第三章
この年の音 ── 1972年 年間シングルTOP10
女のみち / 宮史郎とぴんからトリオ ── 年間1位(1972・73年連続)。5月10日発売、オリコン週間1位を16週連続で記録した大ヒット曲。動画はNippon Columbiaの音源チャンネルより。
瀬戸の花嫁 / 小柳ルミ子 ── 年間2位。4月発売、小柳ルミ子の4作目のシングル。作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃。
さよならをするために / ビリー・バンバン ── 年間3位。2月10日発売。ドラマ「3丁目4番地」の主題歌としてヒットした。
旅の宿 / よしだたくろう ── 年間4位。7月1日発売。作詞・岡本おさみ、作曲・吉田拓郎。フォークブームを代表する1曲。
悪魔がにくい / 平田隆夫とセルスターズ ── 年間5位。発売は1971年だがロングセラーとなり、1972年の年間チャートにも入った。
ひとりじゃないの / 天地真理 ── 年間6位。5月21日発売、天地真理の3作目のシングルで代表曲のひとつ。約60万枚を売り上げた。
京のにわか雨 / 小柳ルミ子 ── 年間7位。8月10日発売。作詞・なかにし礼、作曲・平尾昌晃。
別れの朝 / ペドロ&カプリシャス ── 年間8位。1971年10月発売のデビュー曲。発売直後からロングヒットとなり、1972年の年間チャートにも入った。
ちいさな恋 / 天地真理 ── 年間9位。2月5日発売、天地真理の2作目のシングルで初のオリコン1位を獲得した。
太陽がくれた季節 / 青い三角定規 ── 年間10位。ドラマ「飛び出せ青春」主題歌。この年の日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞した。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。多くはアーカイブ系チャンネルや自動生成の「-Topic」チャンネルからの採用で、公式アーティストチャンネルが存在する曲はほとんどありません。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
第四章
この年の台
1972年は資料そのものが乏しく、記録に残る機種はごくわずかです。実写・実戦動画も見つからなかったため、今回はテキストのみでの紹介になります。
パチンコ
吾妻年 要確認
SANKYO
詳しい仕様の記録はほとんど残っていないが、SANKYOはこの後『吾妻号 ダイヤクラゲ』『吾妻号 サンスター』など、
1974年だけで10機種近い『吾妻号』シリーズを展開しており、『吾妻』はSANKYOの手打ち機を代表する台枠名に
なっていたとみられる。当時はまだレバーで玉を弾く木製の手打ち機が主流で、電動ハンドルが認可されるのは
翌1973年のこと。なお、SANKYOのファンサイト記事では『吾妻』という台枠名を1977年前後の資料に結びつけて
紹介しているものもあり、正確な初出年は資料によって差がある。
パチンコ ─ 新ジャンル認可
アレンジボール(新ジャンル認可)
各社(業界認可・11月15日)
数合わせで賞品コインが払い出される、パチンコとは別ジャンルの遊技機として1972年に認可された。玉を
数字の受け皿に入れて中央のランプを光らせ、縦・横・斜めのライン成立で配当が増えるルール。従来の
パチンコより技術介入の要素が強く、専門店ができるほどの人気ジャンルに育った。のちにデジパチ全盛期を
経て『アレンジフィーバー』などの一発台タイプに進化し、数字を麻雀牌に替えた『雀球』という派生ジャンルも
生まれている。個別の第一号機の機種名・メーカーまでは特定できなかったため、ジャンル単位で紹介している。
1972年の全機種を年表で見る →
第五章
あの頃の空気 ── 超合金とドカベンの年
12月3日、フジテレビ系でアニメ『マジンガーZ』の放送が始まった。日曜19時から全92話。当時としては異例の高視聴率(平均22.1%、最高30.4%)を記録し、関連玩具として発売された『超合金』や大型人形『ジャンボマシンダー』が飛ぶように売れた。それまでテレビアニメのスポンサーは菓子メーカーが中心だったが、この年を境に玩具メーカーが本格的にスポンサーへ加わるようになり、アニメ業界の構図そのものが変わっていくきっかけになった。
本屋の棚でも動きがあった。『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)では、この年の18号から『ドカベン』(水島新司)の連載が始まる。まだ『週刊少年ジャンプ』が発行部数トップを走っていた時代だが、チャンピオンはこの後『ブラック・ジャック』『がきデカ』を武器に、数年後にはジャンプの部数を上回るまでに成長していく──その最初の一歩が、この年だった。
昭和47年の懐かしいCM集 ── 1972年に実際に流れていたテレビCMを振り返る解説動画。
台東区を走った都電(1972年撮影) ── 台東区公式チャンネルが公開する8mmフィルム映像。当時の東京の街並みが記録されている。
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第六章
パンダブーム ── 上野に殺到した人々
9月29日の日中国交正常化を記念し、中国から2頭のジャイアントパンダが贈られることになった。10月28日、カンカンとランランが上野動物園に到着。日本で初めて一般公開されたジャイアントパンダで、公開が始まると見物客が殺到し、たちまち社会現象になった。
テレビも新聞もこぞってパンダを取り上げ、ぬいぐるみや絵本などの関連グッズも次々と作られた。ホールの外で起きていたこの熱狂は、機種の記録以上に、1972年という年を強く記憶させる出来事のひとつでもある。
カンカン・ランラン来日のニュース映像 ── ANNnewsCHが公開する、来園当日の様子を伝えるアーカイブ映像。
パンダが初めて日本に ── TBS NEWS DIGが公開する、当時の報道映像。
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第七章
数字で見る1972
9,304軒全国のホール数(前年比89軒減)
1玉2円→3円11月15日、貸玉料金が値上げ
16週「女のみち」がオリコン週間1位を守り続けた週数
52,700円1972年の大卒初任給の平均(厚生労働省 賃金構造基本統計調査)
1973年電動式ハンドルが認可された年。1972年はまだ全台が手打ちだった
2機種この年に記録として残っているパチンコ・パチスロの数(資料が乏しい時代)
1972年10月28日ジャイアントパンダ カンカン・ランランが上野動物園に到着
1972年5月15日沖縄が本土に復帰
1972年2月3日〜13日札幌冬季五輪