特集 ─ 昭和46年
1971
世の中では4月3日、『仮面ライダー』の放送が始まった。7月20日には銀座三越に 日本マクドナルド1号店がオープンし、9月にはカップヌードルが発売される。 街に流れていたのは、この年デビューした小柳ルミ子の「わたしの城下町」。 貸玉料金は1玉2円、景品の上限は100円——どちらも1949年に定められたまま、 この年もまだ変わっていなかった。手打ち式のハンドルを弾き、玉がドル箱に 落ちる音と軍艦マーチがホールに響いていたはずの時代だが、正直に言うと、 この年に発売された個別の機種名は、いまのところ確かな記録として見つかっていない。 翌1972年に平和が「アレンジボール」の認可を受け、この年すでに脱着分離式の 新しい機構「SP機」を投入していたことは分かっている——1971年は、パチンコの 世界がまさに次の変化へ向けて動き出していた、その助走の年だった。
← 思い出年表にもどる1971年のホールは、まだ手打ち式が当たり前の時代だった。電動式ハンドルの 認可はこの2年後、1973年を待たなければならない。貸玉料金は1玉2円、景品の 上限は100円——ともに1949年に定められた基準のまま、この年も据え置かれていた。
それでも業界がまったく止まっていたわけではない。この年、平和が 脱着分離式という新しい機構を備えた「SP機」を投入している。台の一部を 取り外し・付け替えできる仕組みで、後年のさまざまな遊技機の設計思想に つながっていく布石のひとつだった。翌1972年には「アレンジボール」が認可され、 その翌年には電動式ハンドルが認可される——1971年は、その一歩手前、変化の 入り口に立っていた年ということになる。
わたしの城下町 / 小柳ルミ子 ── 年間1位・110.3万枚。4月25日発売のデビュー曲で、オリコン12週連続1位。これは今も女性ソロ歌手の最長記録。
知床旅情 / 加藤登紀子 ── 年間2位・102.8万枚。森繁久彌が知床ロケの縁で作った曲を加藤登紀子がカバーしてヒット。
また逢う日まで / 尾崎紀世彦 ── 年間3位・92.8万枚。3月5日発売。阿久悠・筒美京平コンビの作品で、同年の日本レコード大賞を受賞した。
傷だらけの人生 / 鶴田浩二 ── 年間4位・77.9万枚。俳優・鶴田浩二によるセリフ入りの歌謡曲。
ナオミの夢 / ヘドバとダビデ ── 年間5位・66.6万枚。1月25日発売の日本語盤。原曲はイスラエルのデュオによるヒット曲。
よこはま・たそがれ / 五木ひろし ── 年間6位・60.6万枚。五木ひろしの代表曲のひとつ。
花嫁 / はしだのりひことクライマックス ── 年間7位・60.5万枚。1月10日発売のデビューシングル。北山修が作詞した、駆け落ちを歌った曲。
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正直に書いておきたい。この年、実在が確認できる個別の機種名は、 今回の調査では一つも見つけられなかった。SANKYOオンライン博物館の機種年表も、 パチンコビレッジの過去機種アーカイブも、たどれるのは実質1974年あたりまで。 日本遊技機工業組合や遊技日本のパチンコ歴史館に残っている1971年の記述は、 「平和が脱着分離式の遊技機(SP機)を開発した」という一文だけで、これは 製品名ではなく、方式・機構についての記録だった。
無理に埋めようとするより、分からないことは分からないと書いた方がいいと考え、 今回はこの章に実機カードを並べていない。もし当時ホールで打っていた台の名前を 覚えている方がいれば、ページ下の「思い出」欄にぜひ書き残してほしい。
この年、日本の消費文化に小さな、しかし決定的な変化があった。7月20日、銀座三越1階に 日本マクドナルド1号店がオープンする。工期はわずか39時間、ハンバーガーは1個80円だった。 その2カ月後の9月18日にはカップヌードルが発売され、お湯を注ぐだけの食事という 新しい生活習慣が始まる。街ではホットパンツやジーンズなどアメリカン・カジュアルが流行し、 5月25日には集英社のファッション誌『non-no(ノンノ)』が創刊。前年創刊の『an・an』と 並び、雑誌片手に一人旅をする若い女性たち——のちに「アンノン族」と呼ばれるスタイル——が 生まれるきっかけになった。
テレビでは4月3日、NET系列(現・テレビ朝日)で『仮面ライダー』の放送が始まる。 主演の藤岡弘、が撮影中にオートバイ事故で重傷を負うというアクシデントに見舞われ、 代役として登場した「2号ライダー」一文字隼人(佐々木剛)が新たな人気を呼んだのは、 この番組のよく知られたエピソードだ。本屋の店頭では『週刊少年ジャンプ』がこの年、 公称発行部数100万部を突破。『男一匹ガキ大将』『ど根性ガエル』が並んで連載されており、 少年漫画誌が力をつけていく時代の入り口だった。
【昭和のCM解説】1971年の懐かしいCMを一緒に振り返ってみませんか? ── その年に実際に流れていたテレビCMをまとめた懐かしのアーカイブ映像。
1971年7月20日 マクドナルド1号店オープン ── 銀座三越1階に日本第1号店がオープンした当日を伝える記録映像。
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ホールの外では、まったく違う遊びが日本中を席巻していた。ボウリングである。 1960年、全国のボウリング場はわずか3カ所しかなかった。それが1972年には 3,697カ所にまで急増する。きっかけを作ったのは、女子プロボウラーの 中山律子だった。1970年8月21日、テレビ放送中の大会で女子プロ史上初となる 公認パーフェクトゲーム(12投連続ストライク)を達成し、これが全国的な注目を集める。
1970年にテレビ番組『レディス・チャレンジ・ボール』が放送を開始し、中山律子は 優勝の常連として茶の間の人気者になった。花王がCMに起用し、「♪りつこさん、 りつこさん、さわやか律子さん」というCMソングが街に流れる。ブームが最高潮を 迎えたのが、まさに1971年から翌1972年にかけてだった。ボウリング場は 深夜まで順番待ちの列ができ、マイボール・マイシューズを持つことがちょっとした ステータスにもなった。
パチンコホールにとっても、ボウリング場は同じ「余暇のお金」を奪い合う存在だった。 手打ち式のパチンコが1玉2円のまま据え置かれていたこの時代、レジャーの選択肢 そのものが急速に広がりつつあった——ボウリングブームは、その象徴的な一例だった。
中山律子、パーフェクト達成の日! ── 女子プロ史上初の公認パーフェクトゲームを振り返るアーカイブ映像。
1970年代 ボウリングブーム到来♪中山律子さんパーフェクトゲーム ── ブームの背景をまとめた昭和トピック解説動画。
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