特集 ─ 昭和45年

1970

万博が沸いた年、
台にはまだ名前がなかった。

3月15日、大阪・千里丘陵で日本万国博覧会が開幕した。半年で延べ6,421万人が詰めかけ、9月13日の閉幕までテレビも新聞も万博一色になる。その裏で、3月31日にはよど号ハイジャック事件、7月18日には東京・立正高校で日本初の光化学スモッグ被害が確認され、11月25日には三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で割腹する——高度成長のまぶしさと、その足元で軋み始めていた社会が同居した一年だった。ホールでは貸玉料金1玉2円、景品の上限100円という戦後の規制がまだそのまま続き、台のほとんどは手打ち式。電力館の5面スクリーンの中で「日本を代表する娯楽」として紹介されていたある一台のパチンコ台が、直後に約30万台の回収騒動を引き起こすとは、当時まだ誰も知らなかった。街には皆川おさむの『黒ネコのタンゴ』が流れ、4月にはテレビアニメ『あしたのジョー』が始まっている。

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第一章

百発機の時代、それでも貸玉料金はまだ2円のまま

1970年のホールは、まだ手打ち式が主流だった。電動式ハンドルの認可は1973年を待たねばならず、 指先の感覚だけで玉を弾き出す時代である。貸玉料金は1949年に定められた1玉2円、 景品の上限も戦後まもなく決まった100円のまま、20年以上ほとんど変わっていなかった。

そんな中、前年1969年に解禁されたばかりの新技術「百発機」――1分間に100発を寸分違わず打ち出す機構――が、 ホールに新しい熱を生んでいた。西陣が世に送り出した最新モデル『万朶の桜』は、その象徴的な一台として 大阪万博の会場でも紹介されるほどの評判を呼ぶ。だが、この台の物語は、輝かしい紹介のされ方とは裏腹に、 業界史に残る大きな挫折へと転じていくことになる――その顛末は、この特集の第六章で詳しく振り返る。

百発機という新しい技術が生まれ、それが引き起こした大きな挫折もまた、この年に起きていた。
第二章

ホールの中で、世の中で

🎰 ホールの中
🗾 世の中
3月
西陣『万朶の桜』発売 ── 万博・電力館の5面マルチスクリーン映画で紹介
15日、大阪万博開幕/20日『an・an』創刊/31日、よど号ハイジャック事件
4月
─
1日、テレビアニメ『あしたのジョー』放送開始
7月
─
18日、東京・立正高校で日本初の光化学スモッグ被害が確認される
9月
─
13日、大阪万博閉幕(延べ6,421万人)
11月
─
25日、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で割腹
通年
貸玉料金は1玉2円、景品上限100円の規制がなお続く。台のほとんどは手打ち式/万朶の桜はヒット直後に構造欠陥が発覚し、全国で約30万台を回収/オリンピア系0号機(ゴールデンスター・マークII・III)も名簿上この前後
黒ネコのタンゴ(皆川おさむ)が年間シングル1位・223.5万枚
第三章

この年の音 ── 1970年のヒット曲/オリコン年間シングルランキングTOP10

黒ネコのタンゴ のサムネイル

黒ネコのタンゴ / 皆川おさむ ── 年間1位・223.5万枚。1969年10月発売、翌1970年に爆発的にヒットした空前の子役ヒット曲。当時数え5歳だった皆川おさむが歌った。

ドリフのズンドコ節 のサムネイル

ドリフのズンドコ節 / ザ・ドリフターズ ── 年間2位。1969年発売。コミックバンドとして絶頂期にあったザ・ドリフターズが歌う軍歌調のコミックソングで、1970年も売れ続けた。

圭子の夢は夜ひらく のサムネイル

圭子の夢は夜ひらく / 藤圭子 ── 年間3位。1970年4月25日発売。17歳でデビューした藤圭子のヒット曲で、暗く陰りのある「怨歌」と呼ばれる作風が話題になった。

女のブルース のサムネイル

女のブルース / 藤圭子 ── 年間4位。1970年2月5日発売、藤圭子の2ndシングル。同年3月30日から8週連続でオリコン1位を記録した。

逢わずに愛して のサムネイル

逢わずに愛して / 内山田洋とクール・ファイブ ── 年間5位。1969年発売。前川清をボーカルに据えたムード歌謡グループの代表曲のひとつで、1970年も長く売れ続けた。

手紙 のサムネイル

手紙 / 由紀さおり ── 年間6位。1970年7月5日発売。なかにし礼作詞。第12回日本レコード大賞歌唱賞、第3回日本有線大賞有線努力賞を受賞した。

愛は傷つきやすく のサムネイル

愛は傷つきやすく / ヒデとロザンナ ── 年間7位。1970年発売。橋本淳作詞・中村泰士作曲。日伊混成デュオが歌う切ないラブソング。

今日でお別れ のサムネイル

今日でお別れ / 菅原洋一 ── 年間8位。なかにし礼作詞・宇井あきら作曲。菅原洋一の代表曲のひとつとして長く歌い継がれた。

ヴィーナス のサムネイル

ヴィーナス / ショッキング・ブルー ── 年間9位。1969年にオランダで発売された洋楽。1970年2月に全米ビルボードHot100で1位を獲得し、日本でも大ヒットした。

京都の恋 のサムネイル

京都の恋 / 渚ゆう子 ── 年間10位。1970年5月25日発売。ザ・ベンチャーズ作曲、京都の情景を歌ったご当地ソングの先駆けとして人気を集めた。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。

第四章

この年の台

実機の写真は使えないため、当時の実戦動画・解説動画への入口として、YouTube公式のサムネイルを表示しています(対応する動画があるものだけ)。1970年は手打ち式が中心の時代で、他の年に比べ実名で裏付けの取れる機種の一次資料が極端に少なく、パチンコで実名・実年の裏付けが取れたのは『万朶の桜』1台。加えて名簿上、オリンピア系0号機が3台(導入年は「1970前後」仮置き・要確認)あるため、収録は計4機種です。

パチンコ ─ 百発機

万朶の桜

西陣

1969年に解禁されたばかりの「百発機」(1分間に100発を正確に打ち出せる新技術)の最新モデルとして1970年に発売。大阪万博・電力館の5面マルチスクリーン映画『太陽の狩人』内で日本を代表する娯楽として紹介され、西陣とパートナー企業ソフィアの社員450名が誇らしげに万博見学ツアーを組んだと伝えられる。しかしヒット直後に致命的な欠陥が発覚し、全国で約30万台という前代未聞の規模の回収騒動に発展した(欠陥の具体的な中身は資料に書かれていない)。創業者・清水一二はのちに「約十億円の損害と、約450軒の一流ホールを他社に奪われた」と振り返っている。西陣はこの後『桐生三大メーカー』の一角として再起したが、2023年に廃業した。

調べたこと

読みは「ばんだのさくら」。1分間に100発を正確に打ち出せる「百発機」の最新鋭機で、広告では海外製の動力を使って打ち出しの正確さを謳っていた。※以前ここに書いていた「盤面のベニヤ材の強度など構造上の欠陥」は出典に無い記述だったため取り下げた。出典の記事自体が「具体的な欠陥内容は分かりませんでした」と明記している。※賞球数・盤面構成も見つかっていない(パチンコビレッジに収録が無い)。

パチスロ ─ 0号機/オリンピアマシン

オリンピア・ゴールデンスター年 要確認

オリンピア

セガと太東貿易の共同会社「オリンピア」が作った、日本のホール向けの回胴式遊技機。『オリンピア・スター』(1964年)→『ニュー・オリンピア』(1966年)に続く系列で、輸出用ウィンザーの筐体を流用している。1977年のセガの価格表に28万円で載っている。実機スペックや動画の一次資料は乏しい。

調べたこと

オリンピアが作った日本のホール向けの回胴式遊技機(風俗第七号営業用)で、ウィンザーの筐体を流用している。発売は1974年(Wikipediaは1972年)とされ、いずれにせよこの年に置いてあるのは誤り。1977年のセガの価格表に28万円で載っている。

パチスロ ─ 0号機/オリンピアマシン

オリンピア・マークII年 要確認

オリンピア

オリンピアが作った日本のホール向けの回胴式遊技機で、輸出用ウィンザーの筐体を流用している。系列にマーク番号を振っていった時期の一台で、後続の『マークIII』と並べて名簿に残る。絵柄やペイアウト表の公開資料はほとんど無く、実戦動画も見つからなかった。

調べたこと

オリンピアが作った日本のホール向けの回胴式遊技機で、ウィンザーの筐体を流用している。発売は1971年で、この年に置いてあるのは誤り(2情報源一致)。

パチスロ ─ 0号機/オリンピアマシン

オリンピア・マークIII年 要確認

オリンピア

オリンピアが作った日本のホール向けの回胴式遊技機で、輸出用ウィンザーの筐体を流用している。キャビネット上部にオリンピックの聖火を模したパトライトをパチスロ史上初めて搭載したとされる一台。セガの1972年9月1日付の価格表に36万円で載っている。実戦動画は見つからなかった。

調べたこと

オリンピアが作った日本のホール向けの回胴式遊技機で、ウィンザーの筐体を流用している。発売は1972年で、この年に置いてあるのは誤り(一次資料はセガの1972年9月1日付価格表、36万円)。オリンピックの聖火を模したパトライトをパチスロ史上初めて搭載した。

動画のない機種は、1機種ずつ探したうえで見つからなかったものです。

収録4機種(パチンコ1・パチスロ3)。当時はこれより多くの機種が出ており、資料が見つかるたびに増やしています。年表で1970年を開く →

全機種一覧

1970年に導入された4機種を、導入月の順に並べています。種別ボタンで絞り込めます。

読み込み中…

年表でも同じ一覧を見られます。 1970年の全機種を年表で見る →

第五章

あの頃の空気 ── アンアンとあしたのジョー

3月20日、雑誌『an・an(アンアン)』が創刊された。フランスの『ELLE』と提携した「アンアン エル・ジャポン」として登場し、それまでの実用的な女性誌とは一線を画す、都会的でおしゃれな誌面づくりが話題を呼んだ。翌1971年創刊の『non-no』とあわせて、誌面に載った街を実際に旅する若い女性たちは、のちに「アンノン族」と呼ばれるようになる。街には裾の広がったパンタロンや、紺ブレザーにレジメンタルタイを合わせるアイビールックが広がりはじめ、ミニスカート一辺倒だったファッションに変化の兆しが見え始めていた。

4月1日、テレビアニメ『あしたのジョー』の放送が始まった。原作は1968年から『週刊少年マガジン』で連載中の漫画で、矢吹丈とライバル・力石徹の激しい闘いは大人からも支持される社会現象になっていく。少年週刊誌が子どもだけでなく大人も読む「青年カルチャー」の入口になりつつあった時代、テレビの中とページの中の両方で、ボクシング漫画ブームが盛り上がっていた。

街の空気は、万博一色だけではなかった。7月18日には東京・立正高校で日本初の光化学スモッグ被害が確認され、「青空が見えない」という都市公害がニュースになった。11月25日には三島由紀夫が市ヶ谷で割腹——高度成長の祭典と、急激なひずみが同じ年に並んでいた。ホールの外でも、子ども向けヒット曲『黒ネコのタンゴ』が街に流れ、大人向けには藤圭子の演歌がチャートを席巻する、世代の分かれ目のような音風景だった。

この年の顔

その年のCMには、当時よく見た顔がそのまま映っている。街の記録や、公式チャンネルに残っている映像とあわせて。

1970年(昭和45年)のCMのサムネイル

1970年(昭和45年)のCM ── 万博の年に茶の間で流れていたテレビCM。出ている顔ぶれも、売られている商品も、この年の空気そのままだ。

こんにちはエキスポ 世界中から のサムネイル

こんにちはエキスポ 世界中から【大阪万博秘蔵映像①】 ── MBSが当時取材した秘蔵映像。世界中から人が集まった開会式や、会場を訪れた人々の肉声がそのまま記録されている。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。

第六章

万博とパチンコ ── 西陣『万朶の桜』事件

3月15日、大阪・千里丘陵で日本万国博覧会が開幕した。9月13日までの184日間で、延べ6,421万人が来場する日本史上最大級のイベントになる。会場の『電力館』では5面マルチスクリーンの映画『太陽の狩人』が上映され、日本を代表する娯楽のひとつとして、西陣の百発機『万朶の桜』が紹介されていた。前年に解禁されたばかりの「百発機」(1分間に100発を正確に打ち出す新技術)の最新モデルで、西陣とパートナー企業ソフィアの社員450人が、誇らしげに万博見学ツアーを組んだと伝えられている。

しかし『万朶の桜』の栄光は長くは続かなかった。ヒットの直後、盤面のベニヤ材の強度など構造上の欠陥が発覚し、全国で約30万台という前代未聞の規模の回収騒動に発展する。創業者・清水一二はのちに「約十億円の損害と、約450軒の一流ホールを他社に奪われました」と振り返っている。清水自身も心臓疾患と鬱病を患い、パートナーのソフィア初代社長・井置光男は急逝、清水も事件の約6年後、52歳でこの世を去った。万博に日本中が沸いた年、業界の一台がこれほど劇的な浮き沈みを経験していたことは、あまり知られていない。

1970年大阪万博 [60fps HD] のサムネイル

1970年大阪万博 [60fps HD] ── 会場の様子を高精細に再生したアーカイブ映像。当時の熱気がそのまま伝わってくる。

【昭和45年の万博】押すな押すな のサムネイル

【昭和45年の万博】「押すな押すな!」 ── 1970年9月11日放送、カンテレNEWSの当時の報道映像。1日に約83万人が詰めかけ入場制限になったほどの熱狂ぶりがわかる。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。

第七章

数字で見る1970

6,421万人大阪万博の延べ入場者数(3月15日〜9月13日、184日間)
約30万台西陣『万朶の桜』が欠陥発覚で回収された台数
223.5万枚年間シングル1位『黒ネコのタンゴ』(皆川おさむ)の売上枚数
1玉2円貸玉料金。1949年に定められて以来、20年以上変わっていなかった
100円景品の上限。こちらも戦後まもなくの規制がそのまま続いていた
4機種収録機種数(パチンコ1+オリンピア系0号機3。スロット3台は導入年要確認)
1970年3月15日大阪万博 開幕日
1970年9月13日大阪万博 閉幕日
1970年7月18日東京・立正高校で日本初の光化学スモッグ被害が確認された日
第八章

あなたの1970年

この年、あなたはどこで何をしていましたか。

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