特集 ─ 昭和39年
1964
パチスロの原点が生まれた、
東京オリンピックの年。
10月10日、東京オリンピック開幕。9日前の10月1日には東海道新幹線が開業し、"夢の超特急"が東京と新大阪を結んだ。街ではまだ白黒テレビが当たり前だったが、この年だけでカラーテレビの販売台数は前年までの年間数千台規模から一気に5万7000台へ跳ね上がっている。NHKの開会式中継は視聴率61.2%、女子バレー決勝の"東洋の魔女"対ソ連戦にいたっては66.8%——今も破られていないスポーツ中継の記録だった。日本中がテレビに釘付けになっていたその足元で、ホールの外れに小さな一台が置かれていた。太東貿易(現タイトー)とセガが手がけた回胴式遊技機『オリンピア』。玉を弾くパチンコとは違い、レバーを引きボタンでリールを止める遊技機——貸玉1玉2円の時代に産声を上げた、のちの「パチスロ」の原点である。
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第一章
回胴式遊技機、誕生のいきさつ
1964年、東京の目のほとんどはオリンピックとテレビに向いていた。だがそのすぐそばで、
のちに一大ジャンルへと育っていく小さな機械が産声を上げている。太東貿易(現タイトー)
とセガが手がけた回胴式遊技機『オリンピア』——メダルを投入してレバーを引き、
3本のリールを任意のタイミングで止める、パチンコとは似て非なる遊技機である。
最大の特徴は、玉を弾くだけのパチンコと違い、スキル・ストップ・ボタンでリールを
止められる「技術介入の余地がある遊技」だったこと。この理屈が認められ、
風俗第七号営業という許可を得て稼働した、日本初の回胴式遊技機とされている。
太東貿易が愛知県の中日シネラマ会館で稼働させたのが日本初とする説と、セガが製造を
担ったとする説の両方が資料に残っており、最終的に両社共同で販売会社「オリンピア」
が設立された。
1965年には東京に専門店が現れ、1966年末までに全国20軒へ広がったが、誕生から
10年ほどでその姿を消したとされる。貸玉1玉2円という時代に生まれたこの小さな機械が、
のちに「パチスロ」と呼ばれる一大ジャンルの原点だった。
オリンピックに沸く街の片隅で、ボタンでリールを止める新しい遊技機が動き出していた。
その名も『オリンピア』——「パチスロ」という言葉が生まれる、はるか前の話である。
第二章
ホールの中で、世の中で
4月
─
28日、平凡出版(現マガジンハウス)が日本初の青年週刊誌『平凡パンチ』を創刊
夏
─
銀座に、アイビールックの若者集団「みゆき族」が出現
9月
─
警察の一斉補導を受け、「みゆき族」が街から姿を消す
10月
回胴式遊技機『オリンピア』稼働(太東貿易・セガ)——日本初の回胴式遊技機、のちのパチスロの原点
1日、東海道新幹線開業/10日、東京オリンピック開幕(NHK中継 視聴率61.2%)/23日、女子バレー決勝「東洋の魔女」対ソ連(視聴率66.8%)
通年
オリンピア——太東貿易・セガ共同で販売会社「オリンピア」設立
カラーテレビ販売台数が前年までの年間数千台規模から5万7000台へ急増
第三章
この年の台
実機の写真は使えないため、当時の実戦動画・解説動画への入口として、YouTube公式のサムネイルを表示しています。1964年は資料に残る具体的な機種名がほとんど見つからず、確実に裏取りできた一台だけを掲載しています。
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パチスロ ─ 回胴式遊技機(黎明期)
オリンピア(オリンピアスター)
セガ・太東貿易(共同)
スキル・ストップ・ボタンを備え、「技術介入の余地がある遊技」として風俗第七号営業の許可を取得した、日本初の回胴式遊技機。太東貿易(現タイトー)が愛知県の中日シネラマ会館で稼働させたのが日本初とする説と、セガが製造を担ったとする説の両方が資料に残り、最終的に両社共同で販売会社「オリンピア」が設立された。メダルを投入してレバーを引き、3本のリールを任意のタイミングで止める仕組みは、のちに一大ジャンルとなる「パチスロ」の原点。1965年に東京に専門店が現れ、1966年末までに全国20軒へ広がったが、誕生から10年ほどで姿を消したとされる。
サムネイルはYouTube公式が提供する画像です。クリックすると各動画のページが開きます。
第四章
あの頃の空気 ── みゆき族と東洋の魔女
この年の銀座には、独特の若者群像がいた。VANやJUNの紙袋を抱え、崩したアイビールックに身を包んだ「みゆき族」である。特に目的もなくみゆき通りをぶらぶらと歩くだけのその集団は、1964年の夏に現れたかと思うと、オリンピックで来日する外国人の目に触れては国の恥だという理由で警察に一斉補導され、9月にはもう街から姿を消していた。入れ替わるように4月28日、平凡出版(現マガジンハウス)から日本初の青年週刊誌『平凡パンチ』が創刊。アイビーファッションからグラビアまでを扱い、のちの若者文化を牽引していく。
テレビの前では、もうひとつの熱狂があった。10月23日、女子バレーボール決勝の対ソ連戦。大日本紡績貝塚工場の選手たちを中心にした代表チーム「東洋の魔女」が全勝優勝を果たし、視聴率は66.8%——いまだに破られていないスポーツ中継の記録を打ち立てた。「オリンピックまでに」の号令のもと、この年カラーテレビの販売台数は前年までの年間数千台規模から一気に5万7000台へ跳ね上がっている。とはいえまだ一家に一台とはいかない、高嶺の花の時代だった。書店では『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が並び、手塚治虫の『鉄腕アトム』が連載中盤を迎え、赤塚不二夫の『おそ松くん』もすでに人気連載になっていた。
1964年のCM|昭和39年のCM8選 ── その年に流れていたテレビCMをまとめた懐かしの映像。当時の商品や暮らしぶりがそのまま残っている。
1964年日本の風景[60fps HD] ── 記録映画『東海道新幹線』からの抜粋。東京駅や富士山など、新幹線が走り抜けた沿線の景色が残る。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
第五章
東京が生まれ変わった年 ── 新幹線とオリンピック景気
1959年にIOC総会で東京開催が決まってから、この年までの数年間、東京は工事現場のような街だった。首都高速道路、東京モノレール、上下水道の整備——競技施設だけでなく都市そのものをつくり直す大工事が同時進行し、1963年から1964年にかけては「オリンピック景気」と呼ばれるほど経済活動を押し上げた。
その象徴が、オリンピック開幕のわずか9日前、10月1日に開業した東海道新幹線である。総工費約3,800億円、最高時速210キロ、東京−新大阪間を4時間で結ぶ「夢の超特急」。開業式には天皇皇后両陛下も出席し、一番列車「ひかり1号」が発車していった。ホールの貸玉料金がまだ1玉2円だった時代に、日本の風景そのものが数年でつくり変えられていった——それが1964年という年だった。
都政記録「東京ルネッサンス1964」 ── 東京都公式チャンネルが公開する、オリンピック開催に向けて活気づく東京の姿を記録した都政記録映画。
東海道新幹線開業 ひかり1号出発 ── 1964年10月1日、両陛下ご出席のもとで行われた開業式と、一番列車発車の映像記録。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
第六章
数字で見る1964
1964年10月10日東京オリンピック開幕。NHKの開会式中継は視聴率61.2%を記録した
1964年10月1日東海道新幹線開業。オリンピック開幕のわずか9日前、東京−新大阪間を4時間で結んだ
66.8%女子バレー決勝(対ソ連)の視聴率。歴代スポーツ中継最高、いまも破られていない記録
5万7000台この年のカラーテレビ販売台数。前年までは年間数千台規模だった
21,526円1964年の大卒初任給の平均
60円喫茶店のコーヒー1杯の値段
1玉2円貸玉料金。1949年に定められ、1972年まで続いた
1機種この年、記録として裏取りできたパチンコ・パチスロの数(オリンピア)