特集 ─ 昭和37年
1962
世界初の
「1000万都市」が生まれた年。
1962年2月、東京都の人口が推計1000万人を突破した。世界のどの都市もまだ到達したことのない
大台——東京は、世界で最初の「1000万都市」になった。地方から仕事を求めて上京する若者たちの
流れが、そのままこの街を膨らませていった時代である。ホールの世界に目を移すと、1955年からの
連発式規制による「冬の時代」はまだ完全には明けておらず、全国のホール数は昭和30年代前半の底値、
約8,800軒のあたりにあった。それでも1960年に登場した「チューリップ」という小さな発明が、
この先の回復を静かに準備している。貸玉料金は1玉2円。そしてこの年、名前が記録として
残っているパチンコ・パチスロの機種は、まだ見つかっていない。もしあなたに、この年の
ホールの記憶があるなら、このページの一番下にぜひ書き残してほしい。
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第一章
世界初の「1000万都市」
1962年2月、東京都の人口が推計1000万人を突破した。当時、世界のどの都市もまだ到達したことの
ない大台であり、東京は文字どおり「世界初の1000万都市」になった年である。高度経済成長の
まっただ中、地方から仕事を求めて上京する若者たちの流れが、そのままこの街を膨らませていった。
人であふれた東京の裏側では、住宅も交通も人口の増え方に追いついていなかった。郊外には団地が
次々と建ち、通勤電車はすし詰めが当たり前になっていく。パチンコホールにとっても、街に人が
増えるということは、いずれ客が戻ってくるということでもあった。ただしこの時点では、1955年からの
連発式規制による「冬の時代」がまだ尾を引いており、全国のホール数は約8,800軒——戦後ピークの
45,317軒(1953年)からみればおよそ5分の1の水準にとどまっていた。
その底から抜け出す小さなきっかけが、1960年に登場した「チューリップ」という部品だった。
1回の入賞でもう一度チャンスが生まれるこの仕組みが評価され、1966年の役物基準緩和を経て全国に
広がっていく。1962年は、まだその回復の途上にあった一年である。
世界で最初の「1000万都市」になった年、全国のホール数はまだ戦後ピークの5分の1ほどだった。
街が膨らんでいく速さに、ホールの数はまだ追いついていなかった。
東京都公式アーカイブ映像(昭和37年撮影) ── 人口1000万人を超えたばかりの東京を、日本橋から多摩川・六郷まで捉えた記録映像。製作は東京都・東京都映画協会。
昭和37年7月4日のニュース映像(BS11) ── 高度経済成長のなか、観光旅行が庶民の手にも届き始めた頃を伝える一本。放送局BS11が保存する当時のニュースフィルム。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
第二章
ホールの中で、世の中で
2月
─
東京都の人口が推計1000万人を突破。世界初の「1000万都市」に
4月
─
『週刊少年サンデー』16号より、赤塚不二夫『おそ松くん』連載開始
6月
─
ジャニー喜多川、のちの「ジャニーズ事務所」につながる活動を開始
12月
─
27日、第4回日本レコード大賞。橋幸夫・吉永小百合『いつでも夢を』が大賞を受賞
通年
セガ0号機『コンチネンタル』『ロードセガ』(導入「1960代前半」・年要確認)。ホール数は約8,800軒の底値帯
バービー人形が日本で発売/『週刊少年マガジン』で梶原一騎『チャンピオン太』連載開始
第三章
この年の音 ── 1962年の代表ヒット
オリコン年間チャート開始前。年代流行・レコード大賞等の資料から選んだ代表曲。 レコード大賞受賞曲を先頭に、実在を確認できた5曲。
いつでも夢を / 橋幸夫・吉永小百合 ── 第4回日本レコード大賞。この年を象徴するデュエット曲。
可愛いベイビー / 中尾ミエ ── 中尾ミエの代表的ヒット。動画はTopic提供。
ハイそれまでヨ / 植木等 ── クレイジーキャッツ公式チャンネルのアナログレコード音源。無責任男シリーズの延長線上のヒット。
遠くへ行きたい / ジェリー藤尾 ── 永六輔・中村八大コンビの名曲。のちに旅番組の主題歌としても知られる。
下町の太陽 / 倍賞千恵子 ── 同名映画の主題歌。下町情緒を歌う倍賞千恵子の代表曲。動画はTopic提供。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。オリコン年間チャート開始前の年は、レコード大賞・年代流行資料・実売記録の一致をもとに選んでいます(並びは公式順位ではありません)。
第四章
この年の台 ── 収録2機種(スロット2)
machines.jsと同期。パチンコの個別機種名は見つからず、セガ0号機2台のみ(年要確認)。
パチスロ ─ 0号機
コンチネンタル(セガ)年 要確認
セガ
セガのスターシリーズに続く世代の「コンチネンタルシリーズ」。英国向けの輸出機で、日本のパチンコホールに置かれた機械ではない。後年のパチスロ『コンチネンタル』(1990年・瑞穂製作所の3号機)とはまったくの別物。実機スペックの一次資料は乏しく、動画も見つからなかった。
調べたこと
セガのスロットマシン「コンチネンタルシリーズ」。スターシリーズの次世代機で、開発は遅くとも1966年には行われていたとされ、この年に置いてあるのは誤り。英国向けの輸出機。※日本のホール向けではない。1990年の瑞穂製作所「コンチネンタル」(3号機)とはまったくの別物。
パチスロ ─ 0号機
ロードセガ年 要確認
セガ
機種名にメーカー名をそのまま入れた、セガのスロットマシン。米国のClub Specialty Overseas、英国のRuffler & Walkerが配給し、英国版のフライヤーが4種類確認できる。日本のパチンコホールに置かれた機械ではない。設置台数や絵柄の記録は見つかっていない。
調べたこと
セガのスロットマシン。発売は1964年か1965年とされ、この年に置いてあるのは誤り。米国のClub Specialty Overseas、英国のRuffler & Walkerが配給し、英国版のフライヤーが4種類確認できる。※日本のホール向けではない。
1960年代の実機動画は残存が少なく、個別検索のうえ見つからなかった機種はサムネイルなし(文章のみ)で掲載しています。
1962年の全機種を年表で見る →
全機種一覧
1962年に導入された2機種を、導入月の順に並べています。種別ボタンで絞り込めます。
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年表でも同じ一覧を見られます。 1962年の全機種を年表で見る →
第五章
あの頃の空気 ── 人形、漫画、そして「いつでも夢を」
この年、1959年にアメリカで生まれたバービー人形が日本での販売にこぎ着けている。マテル社が
日本の玩具問屋・国際貿易に生産を依頼して完成させた人形で、当時はまだ「流し目の貴婦人」的な
顔立ちが日本の子どもにはあまり馴染まなかったとも言われる(本格的な人気は、1967年発売の
『リカちゃん』を待つことになる)。街のファッションでは、パステル全体を指す「シャーベット・
トーン」が春夏の流行色として広まった。
本屋や貸本屋の棚でも動きがあった。『週刊少年サンデー』16号からは赤塚不二夫の『おそ松くん』
の連載が始まり、以後1967年まで続く人気作になっていく。ライバル誌『週刊少年マガジン』でも、
のちに劇画の大物となる梶原一騎が、本誌では初めてとなる連載『チャンピオン太』(画・吉田竜夫)を
開始している。6月には、のちに芸能界の一大勢力となる『ジャニーズ事務所』につながる活動を、
ジャニー喜多川が始めた年でもある。人口1000万人を超えた東京では、通勤・通学の密度そのものが「都市」の実感を変え始めていた。
そして師走の12月27日、日比谷公会堂で開かれた第4回日本レコード大賞。大賞に選ばれたのは、
橋幸夫と吉永小百合がデュエットした『いつでも夢を』だった。オリコンの年間シングルチャートは
まだ存在しない時代(集計が始まるのは1968年から)のため、この年を代表する一曲として、
レコード大賞受賞曲をここに置いておく。
いつでも夢を / 橋幸夫・吉永小百合 ── 1962年12月27日、第4回日本レコード大賞の大賞受賞曲。オリコン年間チャートが存在しない時代のため、この年を象徴する一曲として掲載。動画は個人の音源アーカイブチャンネルによるアップロード(公式チャンネルではありません)。
1962年 なつかしの昭和にタイムスリップ ── 当時の写真や映像をまとめた、昭和レトロ系チャンネルによるダイジェスト映像。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
第六章
数字で見る1962
1000万人東京都の人口。1962年2月、世界で初めて1000万人を超えた都市になった
約8,800軒昭和30年代前半、連発式規制後のホール数の底値(ピーク時45,317軒の5分の1ほど)
1玉2円貸玉料金。1949年に定められ、景品の上限は100円だった
15,700円1962年の大卒初任給(各種統計まとめによる概数)
1962年12月27日第4回日本レコード大賞。橋幸夫・吉永小百合『いつでも夢を』が大賞を受賞
2機種収録はスロット2(セガ0号機)。いずれも導入時期幅のため年要確認