特集 ─ 昭和36年
1961
4月12日、ソ連のガガーリンが人類初の有人宇宙飛行に成功し、「地球は青かった」という言葉が日本でも語り草になった。10月には坂本九「上を向いて歩こう」が発売され、11月から3か月連続でレコード売上げ1位を独走する——のちに1963年、日本の曲としてただ一曲、全米ビルボード1位まで駆け上がることになる一曲だった。8月には植木等「スーダラ節」が「分っちゃいるけどやめられねぇ」を世に広め、生真面目な戦後日本に「無責任」というゆるさを持ち込んでいる。そしてホールの中でも、静かに、しかし決定的な出来事が起きていた。それまで景品を現金に換える「換金」は、関西の反社会的勢力が仕切る「買人(バイニン)」が担っていたとされる。それを締め出す、より整った仕組みとして、この年、大阪で導入されたのが後に「三店方式」と呼ばれるやり方——今も全国のほとんどのホールで使われている換金の原型である。手打ち式が中心だったこの時代、個々の機種名はほとんど記録に残っていない。もしこの年のホールの記憶がある方がいれば、このページの一番下に、ぜひ書き残してほしい。
← 思い出年表にもどる1950年代のパチンコは、勝って得た景品をその場で現金に換えることが法律上できなかった。それでも実際には、1952年ごろから関西で「買人(バイニン)」と呼ばれる人たちが、ホールの外で景品を買い取るという形で現金化を担っていたとされ、その背後には反社会的勢力が絡んでいたと伝えられている。
この状態を変えるために1961年、大阪で導入されたのが、のちに「三店方式」と呼ばれるようになる仕組みだった。ホールが客に渡した景品を、ホールとは別の第三者の景品交換所が買い取り、その景品を卸売業者を通じて再びホールへ戻す——という三者間の流れを作ることで、特定の景品と特定のホールを結びつけにくくした。反社会的勢力を締め出すための、より整った換金のかたちとして大阪で始まり、以後全国に広がっていく。1968年には福岡高等裁判所が、景品が複数のホールを流通する以上、個別の特定は不可能だとして、この方式が風俗営業法違反にあたらないという判断を示している。
いま日本全国のほとんどのホールで採用されている換金の仕組みは、基本的にこの1961年の大阪方式の延長線上にある。目の前で玉を弾いている「今」という遊びの裏側で、60年以上前のこの年に生まれた仕組みが、今も静かに動き続けている。
1961年はオリコンチャート集計(1967〜68年開始)より前のため、いわゆる「年間TOP10」は存在しません。日本レコード大賞の受賞実績、当時の実売枚数、複数の年代流行資料の一致をもとに厳選した7曲です。並び順は公式順位ではなく、裏取りの強さと知名度による編集上の順です。
上を向いて歩こう / 坂本九 ── 1961年10月15日発売。発売翌月から3か月連続で国内レコード売上げ1位に。1963年、日本の楽曲として唯一、全米ビルボード1位を記録した。動画はUNIVERSAL MUSIC JAPAN公式チャンネルより。
君恋し / フランク永井 ── 55万枚。1961年、第3回日本レコード大賞グランプリ受賞。1929年に二村定一がヒットさせた曲を、ジャズ風にアレンジしたリバイバルカバー。
スーダラ節 / 植木等 ── 80万枚。1961年8月20日発売。「分っちゃいるけどやめられねぇ」のフレーズが流行語になり、植木等と「無責任」ブームの原点になった一曲。
王将 / 村田英雄 ── 300万枚超。1961年11月発売。将棋指し・坂田三吉がモデルとされ、「戦後初のミリオンセラー」とも言われる大ヒットに。翌1962年、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。
銀座の恋の物語 / 石原裕次郎・牧村旬子 ── 公称300万枚。1961年発売。日活映画『街から街へつむじ風』の挿入歌として使われた男女デュエット曲。
東京ドドンパ娘 / 渡辺マリ ── ミリオンセラー。1961年発売。新しいリズム「ドドンパ」を全国に広め、便乗曲が相次ぐ「ドドンパブーム」を巻き起こした。
硝子のジョニー / アイ・ジョージ ── 1961年発売。石浜恒夫の詞にアイ・ジョージ自身が曲をつけたムード歌謡。動画はTEICHIKU RECORDS公式チャンネルより。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
SANKYO公式ヒストリー、日本遊技機工業組合の変遷年表、複数のパチンコ史サイトを調べたが、1961年単年に紐づく具体的な機種名は確認できなかった。前年の1960年には「レコンジスター」「マンモス」「零戦」などチューリップ機が登場したという記録が残っているが、いずれも1960年の出来事であり、1961年そのものではない。
当時は手打ち式が主流で、チューリップの全国普及も1964〜66年とまだ先。個々の機種名が記録として残りにくい端境期にあたる年だった。この年、実際にホールへ通っていた記憶がある方は、ぜひ下の「あなたの1961年」欄に書き残してほしい。
記録として確認できている機種はまだありません。無理に埋めず、確度の低い情報は載せない方針にしています。
ファッションでは、タイトスカートやムームー、カンカンドレス、ショートパンツが女性の間で流行し、男性には「ホンコンシャツ」が人気だった。若者のあいだではセーターとスラックスの組み合わせが定番になっている。そして街を席巻していたのが、新しい踊りの「ドドンパ」。渡辺マリの「東京ドドンパ娘」がミリオンセラーになったことをきっかけに、各地で「〇〇ドドンパ」を名乗る便乗曲が続々と生まれる「ドドンパブーム」が起きた。
本屋・貸本屋の棚では、この年の14号から『週刊少年サンデー』で横山光輝の『伊賀の影丸』の連載が始まっている。忍者ブームの先駆けとなり、1966年まで5年以上続く長期連載になった。手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫といった、のちに「トキワ荘」出身として知られる描き手たちも、すでにこの時期の少年誌の常連だった。
この年、大卒初任給の平均は14,200円。人手不足で有効求人倍率が1倍を超え、働き手の給料が上がり始めた時期でもある。街には植木等「スーダラ節」の「分っちゃいるけどやめられねぇ」というフレーズが流れ、真面目一辺倒だった戦後日本に、どこか「無責任」を笑い飛ばす空気が生まれ始めていた。
車載カメラが捉えた昭和の東京 環状七号線(昭和36年) ── 東京都公式チャンネルが公開する、1961年当時の東京の実写記録映像。
【昭和のCM解説】昭和36年の懐かしいCM ── 1961年に実際に放送されていたテレビCMを振り返る懐かしのアーカイブ映像。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
この年、あなたはどこで何をしていましたか。