特集 ─ 昭和34年

1959

パチンコが、法律で
「風俗営業」になった年。

2月10日、風俗営業取締法が改正され、パチンコは初めて法律の条文の上で 「風俗営業」(のちの風俗第七号営業)として位置づけられた。商売としての ホールが、社会の中にはっきりした輪郭を持ちはじめた年だったと言える。 同じ年の4月10日には、皇太子・明仁親王と正田美智子さんのご成婚パレードが 行われ、8.8kmの沿道には53万人、テレビがまだ各家庭に無かった時代の 街頭テレビの前には推定1500万人が詰めかけた。この中継をきっかけに テレビの普及台数は200万台を超え、「岩戸景気」と呼ばれる好景気が本格化していく。 だが9月には伊勢湾台風が本州を襲い、死者・行方不明者はあわせて5,000人 近くにのぼった。ホールの中では、西陣の『あたりだよおとっつあん』が大ヒットし、 大阪のある部品メーカーが、のちに『チューリップ』と呼ばれることになる羽根の 原型をひっそりと考案していた。祝祭と災害が同居し、パチンコがようやく法律の中に 自分の居場所を見つけた——それが1959年だった。

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第一章

法律の中に、居場所を見つけた年

2月10日、風俗営業取締法が改正され、パチンコは初めて法律の条文の上で 「風俗営業」として位置づけられた。それまで商売としてのホールは、 明確な法的な輪郭を持たないまま営業を続けてきた。この改正によって、 パチンコ店は初めて社会制度の中に自分の居場所を得たことになる。

ホールの中では、西陣の『あたりだよおとっつあん』が大ヒットしていた。 1957年に同社が送り出した役物の先駆け『ジンミット』の後継とされ(発売年には 資料間で1959年説と1961年説の食い違いがある)、役物の中に仕込まれた人形が 入賞のたびに飛び出す仕掛けを持っていたと伝えられる。のちに「ハネモノといえば 西陣」と評される時代の、最初のページがこの年開かれていた。

同じ頃、大阪のある部品メーカー(考案者・鳴尾辰三)は、のちに『チューリップ』 と呼ばれることになる役物の原型をひっそりと考案していた。入賞後、数秒だけレバーが 開く仕組みのこの部品が、翌1960年に成田製作所の手で特許化され、パチンコ史に残る 大ヒット役物へと育っていくのは、もう少し先の話になる。

祝祭と災害が同居し、パチンコがようやく法律の中に自分の居場所を見つけた。
それが1959年という年だった。
第二章

ホールの中で、世の中で

🎰 ホールの中
🗾 世の中
2月
10日、風俗営業取締法改正——パチンコが法律上「風俗営業」に位置づけられる
3月
17日、『週刊少年サンデー』『週刊少年マガジン』が同時創刊(各40円)
4月
10日、皇太子ご成婚パレード。沿道53万人、街頭テレビには推定1500万人
9月
26〜27日、伊勢湾台風。死者・行方不明者あわせて4,697人
通年
あたりだよおとっつあん(西陣)——大ヒット。大阪の部品メーカーが『チューリップ』の原型をひっそり考案
「カミナリ族」「消費は美徳」が世相を映す言葉に。ご成婚中継後、テレビ普及台数が200万台を突破し「岩戸景気」が本格化
第三章

この年の音 ── 1959年 語り継がれる代表曲

オリコン年間シングルチャートは1968年開始のため、1959年時点ではまだ存在しない。ここでは当時の代表的ヒット曲を紹介する音楽アーカイブ系サイトの並びと、同年に始まった第1回日本レコード大賞の受賞曲から、実在・裏取りができた4曲を選んでいる。順位は公式チャート順位ではない点に注意。

夜霧に消えたチャコ のサムネイル

夜霧に消えたチャコ / フランク永井 ── 銀座・赤坂といった夜の街を歌う「ムード歌謡」の先駆けとされる一曲。作詞・宮川哲夫、作曲・編曲は渡久地政信。

南国土佐を後にして のサムネイル

南国土佐を後にして / ペギー葉山 ── 高知の民謡が原曲。作詞・作曲は武政英策。同年公開の同名映画(小林旭主演)の主題歌としても親しまれた。

古城 のサムネイル

古城 / 三橋美智也 ── 作詞・高橋掬太郎、作曲・細川潤一。望郷演歌の代表曲のひとつとして、三橋美智也の歌唱力を象徴する一曲になった。

黒い花びら のサムネイル

黒い花びら /水原弘 ── この年始まったばかりの第1回日本レコード大賞を受賞。作詞・永六輔、作曲・中村八大。新人歌手による大賞受賞は現在に至るまで水原弘ただ一人。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。

第四章

この年の台

主要メーカーの沿革を確認したが、1959年に新設立・新機種の記録が残っているのはこの1機種のみだった。実機の写真・動画も見つかっておらず、当時の資料の乏しさそのものがこの年の記録である。

パチンコ

あたりだよおとっつあん年 要確認

西陣

1957年の『ジンミット』の後継として西陣が送り出した大ヒット作。役物の中に人形を仕込み、玉が入賞するたびに人形が飛び出す仕掛けを持っていたとされ、のちに『ハネモノといえば西陣』と評される時代の幕開けになった一台。ただし発売年・意匠については資料間で食い違いがあり、一部資料では1961年発売・鳩時計モチーフとする記述もある。実写・実戦の動画は見つからなかった。

この年は実機の写真・動画そのものが確認できず、サムネイルは掲載していません。

1959年の全機種を年表で見る →

第五章

あの頃の空気 ── 少年週刊誌の誕生と、新しい消費の街

3月17日、『週刊少年サンデー』(小学館)と『週刊少年マガジン』(講談社)が同時に 創刊された。日本で初めての、少年向け週刊漫画誌である。値段はどちらも1冊40円。 創刊号の表紙を飾ったのは漫画のヒーローではなく、サンデーは読売巨人軍の長嶋茂雄、 マガジンは大相撲力士の朝潮太郎だった——まだ「週刊少年誌」が漫画専門誌というより 総合娯楽誌に近かった時代の姿である。この2誌の同時創刊が、のちに続く週刊少年漫画誌 文化そのものの出発点になった。

街では、オートバイで徒党を組んで走り回る「カミナリ族」が社会問題として 取り沙汰されはじめ、「消費は美徳」という言葉が新しい時代の空気をあらわすフレーズ として口にされるようになった。美容の世界では、日本人特有の硬い髪質に対応する 新しいパーマ技術「アイパー」がこの年発表され、若い男性のあいだでは額に 前髪を垂らす「慎太郎刈り」が流行を続けていた。ファッションでは中近東風の意匠を 取り入れた「フォークロアルック」が百貨店の店頭に並ぶなど、戦後の窮乏から抜け出しつつ ある街に、新しい遊びと新しい消費が生まれはじめていた。

東京のあゆみ あれから13年 のサムネイル

東京のあゆみ あれから13年(1959年制作) ── 東京都公式チャンネルが公開する、1959年制作の記録映画そのもの。戦後13年で焦土から近代都市へ変わっていく東京の姿が収められている。

1959年 昭和の日常 のサムネイル

1959年「昭和の日常」「秋の山」8ミリフィルム映像 ── 当時の家庭用8ミリフィルムで撮られた、市井の暮らしの記録映像。ニュース映像とは違う、生活そのものの空気が残っている。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。

第六章

皇太子ご成婚と『ミッチーブーム』

4月10日午後2時30分、皇太子・明仁親王と正田美智子さんの結婚を祝うご成婚パレードが 行われた。皇居から渋谷の東宮仮御所まで8.8km、50分間のパレードの沿道には53万人 が詰めかけ、まだ各家庭に普及していなかったテレビの前——街頭テレビには推定 1500万人が集まったとされる。NHK・日本テレビ・ラジオ東京テレビ(現TBS)の 3局が生中継し、この放送をきっかけにテレビの普及台数は200万台を超えた。

美智子さまは皇族ではなく民間出身、しかもテニスコートでの出会いから結ばれたという、 それまでの皇室にはなかった『恋愛結婚』のヒロインだった。テニスで着ていた白い セーターやヘアバンド、カメオのブローチなどが『ミッチースタイル』として街にあふれ、 この熱狂は『ミッチーブーム』と呼ばれた。前年から続いていた好景気は、この年 『岩戸景気』と呼ばれる本格的な拡大局面に入っていく。

皇太子ご成婚パレード のサムネイル

祝賀パレード ★昭和 皇太子ご結婚★(1959年4月10日) ── 実際のご成婚パレードを撮影したアーカイブ映像。当時の沿道の熱気がそのまま残っている。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。

第七章

数字で見る1959

1玉2円貸玉料金。1949年に定められた水準がこの年も続いていた
景品上限100円1949年に定められた交換景品の上限額
53万人皇太子ご成婚パレード(4月10日)の沿道人出。街頭テレビには推定1500万人が集まったとされる
4,697人伊勢湾台風(9月26〜27日)による死者数。行方不明者401人を含め、台風被害としては明治以降最大級
1冊40円『週刊少年サンデー』『週刊少年マガジン』創刊号の定価
200万台超ご成婚パレードの中継をきっかけに突破したテレビの普及台数
1機種この年に記録として残っているパチンコ・パチスロの数(あたりだよおとっつあん)
1959年2月10日風俗営業取締法改正。パチンコが法律上「風俗営業」に位置づけられる
1959年9月26〜27日伊勢湾台風
第八章

あなたの1959年

この年、あなたはどこで何をしていましたか。

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