特集 ─ 昭和32年
1957
冬の時代の底で、
役物が生まれた。
連発式の規制で客足が離れ、全国のホール数は1953年の45,317軒から転げ落ちるように減り続け、1957年、ついに8,400軒前後という底を打つ。パチンコ業界がもっとも冷え込んでいた、まさにその年に、西陣の『ジンミット』、平和の『コミック』——盤面中央に玉を導く「役物」を積んだ機種が相次いで登場した。今日まで続く「ヤクモノ」文化は、ここから始まっている。世の中では10月に五千円札、12月に百円硬貨が発行され、南極では日本の観測隊が「昭和基地」に一番乗りを果たした——戦後復興の途上にあった日本が、いくつもの"最初"を刻んだ年だった。
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第一章
底値の年に、役物が生まれた
1957年のホールは、「冬の時代」の真っただ中にあった。1953年、循環式1号機の連射
速度に沸いた業界は全国45,317軒という第一次黄金時代のピークを記録していたが、
その過熱ぶりが「射幸心を煽りすぎる」と問題視され、1954年末から連発式・オール20の
規制が始まる。1955年にかけて全国へ規制が広がると、ホール数はなだれを打つように
減り続け、この1957年、ついに8,400軒前後という底値まで落ち込んだとされる。
HEIWAの前身・平和商会が倒産に追い込まれたのも、この規制のあおりを受けてのことだった。
その最も冷え込んだ年に、業界の未来を変える発明が生まれる。西陣の『ジンミット』は、
盤面中央に玉を導く仕掛け——のちに「役物」と呼ばれることになる機構を積んだ、
記念碑的な一台だった。入賞した玉が内部の橋を通り、奥のポケットに落ちれば大当り。
それまでの「オール物」一辺倒だった盤面に、まったく新しいゲーム性を持ち込んだ。
当時吹き荒れていた好景気「神武景気」にあやかり、「神武景気をミットで受け止め
たい」との願いを込めて名づけられたという。
同じ年、平和も役物「コミック」を搭載した『コミックゲート』を送り出す。センター
役物に風車状の仕掛けを加えたこの機種は全国的なヒットとなり、以後の平和はこの
「コミック」系役物を軸にヒットを重ねていく。1960年代初頭には東海産業の
『コミックゲート』、新栄遊機製作所の『コミックスーパー』など類似品まで登場するほど、
1957年に生まれた仕掛けは業界に広く模倣された。今日のパチンコ台に受け継がれる
「ヤクモノ」文化は、まさにこの底値の年から始まっている。
全国のホール数が史上最低に沈んだ、まさにその年に。
今日まで続く「役物」というアイデアが、ホールの盤面に生まれていた。
第二章
ホールの中で、世の中で
1月
─
29日、第一次南極観測隊を乗せた観測船「宗谷」が東オングル島へ到達、この地を「昭和基地」と命名(前年11月8日、晴海埠頭を出港)
6月
─
日本テレビ『プロレス・ファイトメン・アワー』が週1回のレギュラー放送を開始。力道山の空手チョップに街頭テレビが鈴なりに
10月
─
1日、五千円札(聖徳太子)発行開始/宗谷、南極本観測に向け再び晴海を出航
通年
ジンミット(西陣)、コミックゲート(平和)——役物機が相次いで登場/セガ・ベル(セガ)——国内産スロットの前史
全国のホール数、8,400軒前後という底を打つ/太陽族ブームなお続く。月刊『少年』で『鉄腕アトム』『鉄人28号』が同時連載中
第三章
この年の音 ── 1957年 語り継がれる代表曲
オリコン年間シングルチャートは1968年開始のため、公式の年間TOP10は存在しない。ここでは当時の代表的ヒットとして裏取りと公開音源が確認できた曲を掲載する(順位ではない)。
有楽町で逢いましょう / フランク永井 ── 作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正。有楽町そごう開店キャンペーンとも連動した大ヒットで、雨の有楽町を描くムード歌謡の代表曲。発売は1957年(資料によりSP/EPの時期表記に幅あり)。
チャンチキおけさ / 三波春夫 ── 1957年6月15日発売。作詞・門井八郎、作曲・長津義司。集団就職で都会へ出た若者の郷愁を誘ったとされ、220万枚ともいわれる大ヒット。テイチク系オフィシャルオーディオ。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。オリコン年間シングルチャートは1968年開始のため、この年代に公式の年間TOP10は存在しません。
第四章
この年の台
この時代は実写映像・写真がほぼ現存しておらず、対応する実機動画は見つかりませんでした。史実として確認できた内容を、説明文でできる限り補っています。
パチンコ
ジンミット年 要確認
西陣
パチンコ盤面の中央に「役物」を初めて搭載したとされる記念碑的な一台。入賞した玉が役物内部の橋を通り、奥のポケットに落ちれば大当りという仕組みで、それまでオール物一辺倒だった盤面に新しいゲーム性を持ち込んだ。当時吹き荒れていた好景気「神武景気」にあやかり、「神武景気をミットで受け止めたい」との願いを込めて名づけられたという。連発式規制でホール数が底(8,400軒前後)まで落ち込んでいた「冬の時代」の真っただ中に登場し、業界再起のきっかけになった。資料により開発は1956年、あるいは武内商会とするものもあり、年・メーカーとも要確認。
調べたこと
盤面中央に円形の役物を初めて載せた機械。役物内に入った玉が中央のブリッジに乗って奥へ転がれば入賞、横へ逸れればハズレという仕組みだった(3情報源一致)。連発式とオール20の禁止で不況に沈んでいた業界に、賭博性ではなく「見て楽しむ」方向の突破口を開いた。他社にライセンスするほどの大ヒットで、1957年6月に「ジンミット協会」が結成されている。※開発年は資料により1955年・1956年とされ、1957年は市場に出て流行した年。
パチンコ
コミックゲート年 要確認
平和
平和が開発した役物「コミック」を搭載した機種。センター役物に風車状の仕掛けを加えた改良版とされ、全国的なヒットとなった。以後、平和はこの「コミック」系役物を軸にヒットを重ね、後の躍進の足がかりになったとされる。1960年代初頭には東海産業の『コミックゲート』、新栄遊機製作所の『コミックスーパー』など類似品の販売広告も見られるほど、この年生まれた仕掛けは業界に広く模倣された。
調べたこと
センター役物の上部にセルロイドの窓を設け、そこへ玉が入ると中の水車(コミック)がくるくる回った。回転そのものは入賞と無関係の純粋な視覚効果で、「当たりを取る」以外の楽しませ方を持ち込んだ点が画期的とされた(3情報源一致)。全国的な人気となり、各社が使用許諾を求めて「コミックグループ」が結成された。※特許庁の年表だけが「1958年・奥村」としているが、当時の業界紙に平和・1957年の裏付けがある。
パチスロ(前史)
セガ・ベル年 要確認
セガ(サービス・ゲームズ)
サービス・ゲームズ(のちのセガ)が、米ミルズ社の『ハイトップ』を無断で複製して作ったスロットマシン。日本で製造されたが、売り先は太平洋各地の米軍基地で、1960年ごろからは6ペンス硬貨仕様で英国にも流通した。ミルズ社は1957年末に「製造権を持つのは自社だけ」と表明し、のちに業界誌でサービス・ゲームズを名指しして複製品だと批判している。
調べたこと
※日本のパチンコホールに置かれた機械ではない。Sega Retro の発売記録は米国1956年・英国1960年の2行だけで、日本の行が無い。そもそも1964年に『オリンピア・スター』がスキル・ストップを根拠に風俗第七号営業の許可を取るまで、回胴式の機械は現金を賭ける遊技とみなされ日本国内での営業が認められていなかったので、制度上ホールに並びようがない。※発売年は1956年説と1957年説が併存しており確定していない。「初の国内産スロット」という言い方は、製造地は日本だが製品は米英・米軍基地向けなので誤解を招く。
動画のない機種は、1機種ずつ探したうえで見つからなかったものです。
この年、記録に残るパチンコ・パチスロは、この3機種です(パチンコ2/スロット前史1)。 1957年を年表で見る →
全機種一覧
1957年に導入された3機種を、導入月の順に並べています。種別ボタンで絞り込めます。
読み込み中…
年表でも同じ一覧を見られます。 1957年の全機種を年表で見る →
第五章
あの頃の空気 ── 太陽族、街頭テレビのプロレス、ロボット漫画
ファッション/若者。1955年に石原慎太郎の小説『太陽の季節』が映画化されて以来の
「太陽族」ブームは、1957年になってもまだ街に余韻を残していた。前髪を長めに残した角刈り=
「慎太郎刈り」に、サングラス、派手なアロハシャツ——湘南海岸や銀座のダンスホールに集まる
「無軌道」な若者たちの記号だった。
テレビ/スポーツ。同じ年の6月には、日本テレビで『プロレス・ファイトメン・アワー』が週1回の
レギュラー放送を開始。力道山が外国人選手を空手チョップでなぎ倒す姿に、街頭テレビの前はいつも
鈴なりの人だかりができていた。家庭用テレビがまだ高価だった時代、街角のブラウン管が大衆娯楽の
共通体験になっていた。
漫画。本屋の店頭では、月刊『少年』誌上で手塚治虫の『鉄腕アトム』(1952年連載開始)と
横山光輝の『鉄人28号』(1956年連載開始)という、のちに国民的ロボット漫画の元祖となる2作が
同時に連載中だった。『週刊少年サンデー』『週刊少年マガジン』の創刊はまだ2年先(1959年)——
子どもたちが夢中になったのは、もっぱら月刊誌の時代だった。
この年の顔
その年のCMには、当時よく見た顔がそのまま映っている。街の記録や、公式チャンネルに残っている映像とあわせて。
昭和30年〜32年の懐かしい思い出 ── 1955〜1957年頃の暮らしぶりをまとめたレトロ映像。当時の空気感が伝わってくる。
昭和32年(1957年)の出来事紹介 ── 当時実際に流れていたCM映像も交えて振り返る、1957年のダイジェスト。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
第六章
南極への一番乗り
ホールの外では、日本が国際社会に復帰する象徴的な挑戦が進んでいた。前年の1956年
11月8日、東京・晴海埠頭から観測船「宗谷」が第一次南極観測隊を乗せて出港。
数千人の見送りを受けて南極を目指したこの船は、1957年1月29日、東オングル島に
到達し、この地を「昭和基地」と命名した。終戦からわずか12年、焼け野原からの
復興の途上にあった日本が、南極という未知の大陸に一番乗りを果たした瞬間だった。
同じ年の10月、宗谷は再び晴海を出航し、今度は本格的な観測活動「南極本観測」に
向かう。この壮行の様子は、当時のニュース映画にもそのまま記録されている。パチンコ
業界が『冬の時代』の底で役物という新しい仕掛けを生み出していたのと同じ1957年、
日本はもうひとつの「未知への挑戦」に挑んでいた。
中日ニュース No.196_2 ── 1957年10月、南極本観測に向け再び出航する宗谷の壮行の様子を伝える、当時のニュース映画アーカイブ。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
第七章
数字で見る1957
3機種この年に記録として残っているパチンコ・パチスロの数(ジンミット、コミックゲート、セガ・ベル)
8,400軒前後全国のホール数。連発式規制の影響でこの年が底値だったとされる
45,317軒1953年、全国のホール数がピークに達した数。わずか4年で5分の1以下まで落ち込んだ
2円パチンコ玉の貸出料金(1玉)。1949年制定の基準がこの年も続いた
100円景品交換の上限額。1949年制定、この年も継続中
9,200円1957年の大卒初任給の平均
1957年1月29日南極観測隊が東オングル島に到達、「昭和基地」と命名した日
1957年10月1日五千円札(聖徳太子)の発行開始日
1957年12月11日百円硬貨(鳳凰・銀貨)の発行開始日