特集 ─ 昭和30年
1955
1954年12月に始まった好景気は、初代天皇・神武天皇の即位以来という触れ込みで「神武景気」と呼ばれた。 11月15日には保守勢力が合流して自由民主党が結成され、以後長く続く「55年体制」がこの年に始まっている。 日本全体が上向きに見えたその同じ年、パチンコ業界だけは正反対の方向へ動いていた。 3月、爆発的な人気を誇った連発式が全国で禁止され、10月には代表機種「オール20」まで禁止対象に加わる。 1個2円の玉を撃ち、景品の上限は100円——それでも「オール20」は一撃最大40円を払い出す射幸性の高さが 問題視された結果だった。1953年に45,317軒を数えた全国のホールは、この規制をきっかけに坂を転げ落ちる ように減り続け、1962年には8,800軒にまで落ち込むことになる。神武景気とは名ばかりの、パチンコにとっての 「冬の時代」が始まった年——それが1955年だ。
← 思い出年表にもどる1954年12月に始まった好景気は、初代天皇・神武天皇の即位以来という触れ込みで 「神武景気」と呼ばれた。11月15日には自由党と日本民主党が合流して 自由民主党が結成され、以後長く続く「55年体制」がこの年に始まっている。 国全体が上向きに見えたその同じ年、パチンコ業界の空気だけは正反対だった。
1953年、全国のホール数は45,317軒を数え、統計上のピークを記録していた。 牽引役は、玉を上皿にまとめて右手だけで次々に打ち出せる連発式——通称 「機関銃式」だった。中でも代表機種の「オール20」は、1個2円の玉を撃つ時代に、 1回の払い出しで最大40円を叩き出す破壊力を持っていた。だが1955年3月、その射幸性の 高さが問題視され、全国の公安委員会が一斉に連発式を禁止する。同年10月には 「オール20」自体も禁止対象に加えられた。
ホールは一夜にして、旧来の単発式へ逆戻りすることを強いられる。以後ホール数は 坂を転げ落ちるように減り続け、1962年には8,800軒まで落ち込むことになった。 神武景気とは名ばかりの、パチンコにとっての「冬の時代」——それが1955年という 年だった。
1955年は、後世に残る「ヒットチャート」も、記録に残る「新型パチンコ台の名前」も、 驚くほど乏しい年である。まず曲について——日本のレコード売上を集計する オリコンの創設は1968年。13年も先の話で、1955年当時にはまだ統一された 年間ランキングという仕組み自体が存在しなかった。当時流行した曲についての記述は 資料によって挙げる曲や順位がバラバラで、確度の高い一次資料に基づく「年間TOP10」を 再構成することはできなかった。そのため、このページではあえてヒット曲のランキングを 掲載していない。
機種についても事情は近い。このサイトの機種データベースに、1955年付けで登録されている 行は一件もない。というのも、1955年のパチンコ史における最大の出来事は「新機種の登場」 ではなく、第一章で触れた「連発式・オール20の規制」そのものだったからだ。複数の 資料を確認したが、この年に新規発売されたと確認できる具体的な機種名は見つからなかった。 記録が薄い年こそ、実際にホールに通っていた方の記憶が貴重になる。もし覚えていることが あれば、このページの一番下にぜひ書き残してほしい。
この年、生活の目標として語られはじめたのが電気洗濯機・電気冷蔵庫・白黒テレビの3つ、 のちに「三種の神器」と呼ばれる家電だった。とはいえこの時点で実際に持っている 家庭はまだ少なく、多くの人にとっては憧れの品でしかなかった。ファッションの世界では、 この年の春、パリでクリスチャン・ディオールが「Aライン」を発表。日本の女性誌・ 洋裁雑誌にもすぐに紹介されたが、既製の洋服はまだ高価で、パターン誌を見ながら自分で ミシンを踏んで仕立てる女性も多かった時代である。
8月、東京通信工業(のちのソニー)が日本初の量産型トランジスタラジオ 「TR-55」を18,900円で発売する。当時としては高価な最先端ガジェットだった。 7月9日には後楽園ゆうえんちに、日本初の本格的なジェットコースターが登場し話題に なった——とはいえ、こうした新しい遊びに縁のない子どもがほとんどで、路地や駄菓子屋の 前では相変わらずベーゴマ、ビー玉、めんこが主役だった。学校給食の定番は脱脂粉乳と コッペパン、そして鯨肉の竜田揚げ。
11月15日、保守勢力が結集して自由民主党が結成される。以後長く続く「55年体制」の 始まりだった。前年末から始まった好景気は、初代天皇の即位以来という触れ込みで 「神武景気」と名づけられ、翌々年の経済白書「もはや戦後ではない」へとつながって いく。日本全体が上を向き始めたこの年、パチンコのホールだけは正反対の逆風にさらされて いた。
【昭和30年】1955年 なつかしの昭和にタイムスリップ! ── 「なつかし昭和チャンネル」による、1955年当時の暮らしや流行をまとめた動画。
市政ニュースアーカイブ Vol.1 ~昭和30年代前半~ ── 愛知県一宮市が公開する、昭和30年代前半の実際の市政ニュース映像アーカイブ。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。
1950年代前半、パチンコ業界は空前のブームに沸いていた。1953年には全国のホール数が 45,317軒を数え、統計上のピークを記録する。人気を牽引したのが連発式——玉を 上皿にまとめて入れておけば、右手だけで次々に打ち出せる「機関銃式」の遊技機だった。 中でも豊国遊機製作所の「オール20」は代表的な一台で、1個2円の玉を撃つ時代に、 1回の払い出しで最大40円を叩き出す破壊力があった。
だがその射幸性の高さが問題視され、1955年3月、全国の公安委員会が一斉に 連発式パチンコの禁止に踏み切る。同年10月には「オール20」自体も禁止対象に 加えられ、警察庁は認可機種を「一式(手で1個ずつ発射)」「二式(発射した玉の結果を 確認してから次を撃てる)」「三式(1分間30発以内)」の3タイプに限定する検定基準を 新たに設けた。ホールは一夜にして、旧来の単発式へ逆戻りすることを強いられる。
影響は数字にはっきり表れた。1953年に45,317軒あった全国のホールは、この規制を きっかけに減り続け、1955年のうちにすでに1万2千軒台まで落ち込んだとする記録もある。 その後も減少は止まらず、1962年には8,800軒にまで縮小する。神武景気に日本全体が 沸いた同じ年、パチンコ業界だけは「冬の時代」の入り口に立たされていた。
正村ゲージ誕生秘話と正村竹一の功績 ── パチンコ史専門チャンネル「悠遊道」による解説動画。連発式規制の前提となる、戦後パチンコの技術的な出発点を解説している。
パチンコ100年の規制の歴史を一気に解説 ── 大正から令和まで、パチンコ業界にかけられてきた規制の変遷をまとめた動画。1955年の連発式禁止もこの歴史の重要な一節にあたる。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
この年、あなたはどこで何をしていましたか。