特集 ─ 昭和29年
1954
連発式パチンコが、
消えていく年。
3月1日、ビキニ環礁での水爆実験によって、漁船『第五福竜丸』が被曝する。その恐怖を怪獣の姿に託した映画『ゴジラ』が、11月3日に封切られた。4月26日には黒澤明の『七人の侍』も公開されている——1954年は、戦後日本の記憶に残る映画が相次いだ年だった。そしてホールの世界でも、静かに時代の転換点が来ていた。前年1953年に全国45,317軒というピークを記録した直後のこの年、東京都公安委員会が「連発式」パチンコの禁止に動き出す。12月18日には警察庁から全国の警察に規制の参考資料が配られ、翌1955年にかけて禁止は全国へ広がっていく。射幸心を煽りすぎた一時代が、この年、静かに終わりを告げようとしていた。
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第一章
連発式パチンコ、規制前夜
パチンコ業界にとって1954年は、絶頂のすぐあとにきた転換点だった。前年1953年、全国のホール数は45,317軒というピークを記録している。背景にあったのは、1953年ごろに登場した高速連射の発射機構——毎分160〜180発ともいわれる速さで玉を撃ち出せる仕組みだった。これによって『連発式』の台はさらに過熱し、一度に大量の玉を払い出す『オール20』のような機種は、貸玉2円・景品上限100円という当時のルールの中で一撃40円分もの払い出しを生み、『射幸心を煽りすぎる』とみなされるようになっていた。
この年、東京都公安委員会が連発式パチンコの禁止に動く。その約1か月後、1954年12月18日には、警察庁刑事部長から警視庁・各道府県警本部長あてに『ぱちんこ遊技に関する事務上の参考資料』という文書が送られた。当局が検討した選択肢には『パチンコの全面禁止』まで含まれていたというが、最終的に選ばれたのは発射速度の制限と景品上限の設定という、いくらか穏当な案だった。この一手が引き金になり、翌1955年3月には連発式が、同年10月にはオール20が全国で禁止されていく。
あおりを受けた業界の打撃は大きかった。のちのHEIWAの前身にあたる平和商会は、皮肉にも1954年に電動式の連発式パチンコを製造・販売した直後にこの規制に直撃され、翌1955年に約9,000万円の負債を抱えて倒産している。最後まで生き残ったのは、正村竹一考案の釘配列『正村ゲージ』を使った、連発ではなく単発の『オール15』だった。ホール数はやがて8,800軒台まで落ち込む『冬の時代』を迎えるが、その中でパチンコを支え続けたのは、この地味な生き残り機だった。
前年、全国45,317軒というピークを記録した直後のこの年、
射幸心を煽りすぎた一時代が、静かに終わりを告げようとしていた。
戦後のパチンコ 復活の経緯 正村竹一の活躍[パチンコの歴史③][悠遊道][ゆっくり解説] ── パチンコ・パチスロ悠遊道による解説動画。正村ゲージを生んだ正村竹一と、戦後パチンコ復活の経緯を扱う。
【パチンコ裏史】今が一番ゆるい時代かも!?パチンコ100年の規制の歴史を一気に解説【大正から令和まで】 ── 大正から令和まで、パチンコ規制の歴史を通しで解説する動画。1954〜55年の連発式規制もこの大きな流れの一部として位置づけられている。
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第二章
ホールの中で、世の中で
2月
─
1日〜23日、マリリン・モンローが新婚旅行を兼ねて来日。羽田空港のタラップからの降機ルートを変えるほどの人だかりになった
3月
─
1日、ビキニ環礁での水爆実験。漁船『第五福竜丸』が被曝する
4月
─
26日、黒澤明監督『七人の侍』公開/27日(東京地区)、『ローマの休日』日本封切。オードリー・ヘプバーンの髪型が「ヘップバーンカット」として大流行
8月
─
春日八郎『お富さん』発売。「死んだはずだよ お富さん」のフレーズが流行語に。最終的に約125万枚を売り上げた
11月
東京都公安委員会が「連発式」パチンコの禁止に動き出す
3日、映画『ゴジラ』公開。第五福竜丸事件からおよそ8か月後の封切りだった
12月
18日、警察庁刑事部長が全国の警察本部長あてに『連発式』規制の参考資料を送付
22日、力道山vs木村政彦(蔵前国技館)。街頭テレビの前は黒山の人だかりに
通年
正村ゲージ オール15(正村商会)──連発式・オール20の禁止後、単発式の主力機として生き残る
前年1953年、全国のホール数が45,317軒でピークに達していた/手塚治虫『鉄腕アトム』が月刊誌『少年』で連載中
第三章
この年の台
実機の写真は使えないため、当時の実戦動画・解説動画への入口として、YouTube公式のサムネイルを表示しています(対応する動画があるものだけ)。
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パチンコ ─ オール物
正村ゲージ オール15年 要確認
正村商会
正村竹一が考案した釘配列『正村ゲージ』を使ったオール物。1954年末、射幸性が高すぎるとして『連発式』と『オール20』が禁止された後、単発式で払い出しも抑えめなこの『オール15』だけが主力として生き残った。初出はこれより数年早い1949年頃とみられ、1954年に新発売された機種ではない点には注意が必要。だが1954年の規制を生き延び、その後の『冬の時代』のホールを支え続けたという意味で、この年を象徴する一台といえる。
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この年、記録に残るパチンコ・パチスロは、この1機種のみです。 1954年を年表で見る →
第四章
あの頃の空気 ── 銀幕とラジオと街頭テレビ
2月1日から23日にかけて、マリリン・モンローが新婚旅行を兼ねて来日した。羽田空港には人が押し寄せ、タラップからの降機ルートを変えるほどの騒ぎになったという。4月26日には黒澤明監督の『七人の侍』が、4月27日(東京地区)にはオードリー・ヘプバーン主演の『ローマの休日』が日本で封切られた。ヘプバーンの髪型はたちまち「ヘップバーンカット」と呼ばれ、全国の美容室に注文が殺到する大流行になったという。そして11月3日、第五福竜丸事件からおよそ8か月後に『ゴジラ』が公開される。水爆実験への恐怖を怪獣の姿に託した、戦後日本を象徴する1本だった。
本屋の棚では、手塚治虫の『鉄腕アトム』が月刊誌『少年』で連載中で、この年だけで「火星探検の巻」「コバルトの巻」「ZZZ総統の巻」と物語が矢継ぎ早に展開していた。街や宴会の席では、8月に発売された春日八郎の『お富さん』が爆発的にヒット。発売から4か月で40万枚、最終的に125万枚を売り上げ、「死んだはずだよ お富さん」のフレーズは誰もが口ずさむ流行語になった。テレビはまだ各家庭には無く、街頭テレビの前に人だかりができる時代——この年もプロレス中継のたびに、街頭テレビは黒山の人だかりになっている。
『ゴジラ』| 予告編 | ゴジラシリーズ 第1作目 ── 11月3日公開。第五福竜丸事件から間もなく封切られた、核の恐怖を怪獣の姿に託した1作目の予告編。東宝公式「Godzilla Channel」より。
力道山vs木村政彦 1954.12.22 蔵前国技館 ── 家にテレビが無く、街頭テレビの前に人だかりができていた時代の空気を伝える一戦のノーカット映像。
動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。
第五章
数字で見る1954
45,317軒1953年、全国のパチンコホール数がピークに達した数。1954年はその直後の規制の年
2円パチンコ玉の貸出料金(1玉)。1949年制定の基準がこの年も続いた
100円景品交換の上限額。貸玉2円のルールの中で定められていた
40円禁止された『オール20』が一撃で払い出す景品の上限額(貸玉2円×20発分)
1954年12月18日警察庁刑事部長が全国の警察本部長あてに『連発式』規制の参考資料を送った日
1954年11月3日映画『ゴジラ』公開日
約125万枚春日八郎『お富さん』(8月発売)の推定累計売上
1機種この年に記録として残っているパチンコ・パチスロの数