特集 ─ 昭和26年

1951

占領が終わり、
民放ラジオが生まれた年。

1951年、日本は7年近く続いた占領統治の終わりに近づいていた。9月8日、吉田茂首相をはじめとする 日本全権団がサンフランシスコで対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)と日米安全保障条約に 調印し、翌1952年4月、主権国家として国際社会に復帰する道が定まる。同じ年の9月1日には中部日本放送 (現・CBCラジオ)と新日本放送(現・MBSラジオ)が開局し、NHKだけだったラジオに初めて民間局が 加わった——世の中はここから大きく動き出していく。ホールの世界でも、警視庁が「パチンコの遊び方」を 発表して18歳未満の入店を禁止し、全国遊技業組合連合会(全遊連)が発足。全国のホール数はこの年、 約12,000店にまで増えていた。ただし、この年に発売された個別の機種名は、記録としてほとんど 残っていない。正村ゲージ(1948年)とオール20(1950年)が生まれたあと、オール20連発式(1952年)が 大ヒットする前——1951年は、そのあいだの静かな1年だった。

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第一章

占領の終わりと、お茶の間に増えたラジオ

9月8日、吉田茂首相をはじめとする日本全権団が、サンフランシスコのオペラハウスで連合国48カ国と 対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)に調印した。同じ日、日本はアメリカと 日米安全保障条約も結んでいる。条約の発効は翌1952年4月28日。約7年におよんだ占領統治が終わり、 日本は主権国家として国際社会に復帰する一歩を踏み出した。

その1週間前、9月1日午前6時30分には、中部日本放送(現・CBCラジオ、名古屋)が第一声を上げ、正午には 新日本放送(現・MBSラジオ、大阪)も開局した。1925年の放送開始以来ずっとNHKだけだったラジオに、 初めて民間の局が加わった瞬間である。年末の12月24日にはラジオ東京(現・TBSラジオ)も開局し、この年 だけで全国に6つの民放ラジオ局が誕生した。

その民放開局よりも早く、この年の1月3日にはすでにNHKによる第1回紅白歌合戦がラジオで放送 されている。テレビ放送が始まるのはまだ2年先(NHKのテレビ本放送は1953年)で、歌合戦は音だけで 茶の間に届けられていた。

占領が終わりに近づき、ラジオに初めて民間の声が加わった年。
音だけで届く紅白歌合戦は、まだテレビが無い時代のお茶の間の景色だった。
「サンフランシスコ平和条約」のサムネイル

「サンフランシスコ平和条約」 ── ニュース映画アーカイブを扱う中日映画社チャンネルより。調印当時の記録映像。

第一回紅白歌合戦のサムネイル

第一回紅白歌合戦(1951年1月3日・ラジオ放送) ── 昭和オムニバスチャンネルより。テレビがまだ無かった時代、音だけで届けられた紅白。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。

第二章

ホールの中で、世の中で

🎰 ホールの中
🗾 世の中
1月
─
3日、NHK第1回紅白歌合戦(ラジオ放送、テレビはまだ無い時代)
4月
─
2日、五百円紙幣発行(肖像は岩倉具視)/光文社『少年』4月号で手塚治虫『アトム大使』連載開始
9月
─
1日、中部日本放送・新日本放送が開局——NHKだけだったラジオに初の民放局/8日、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約に調印
12月
─
24日、ラジオ東京(現・TBSラジオ)開局。この年だけで全国に6局の民放ラジオ局が誕生
通年
警視庁「パチンコの遊び方」発表・18歳未満の入店禁止/全国遊技業組合連合会(全遊連)発足/正村竹一が株式会社正村商会を設立(月産2万台規模)
全国のホール数、約12,000店に増加(前年1950年は約8,400店)
第三章

この年の音 ── 1951年 語り継がれる代表曲

オリコン年間シングルチャートは1968年開始のため、公式の年間TOP10は存在しない。ここでは発売年・史実の裏取りができ、YouTubeで公開されている音源を確認できた代表曲のみを掲載する(順位ではない)。

買物ブギー / 笠置シヅ子 のサムネイル

買物ブギー / 笠置シヅ子 ── 1950年発売の大ヒットが、1951年も街に残り続けたブギ。笠置は翌1952年の第2回NHK紅白歌合戦でこの曲を歌ったとされる。コロムビア系アーカイブ音源。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。オリコン年間シングルチャートは1968年開始のため、この年代に公式の年間TOP10は存在しません。

第四章

この年の台

この年、記録として確認できている個別のパチンコ・パチスロの機種名はまだありません。正村ゲージ (1948年)を土台にした「オール20」(1950年)が広まったあと、大ヒットする「オール20連発式」 (1952年)が登場する前——1951年は機種の歴史でいえば静かな1年でした。ただし、まったく動きが 無かったわけではなく、この年、「正村ゲージ」の考案者である正村竹一が名古屋で株式会社正村商会を 設立し、月産2万台という規模でオール物の製造にあたっています。これは特定の「機種」の登場では なく、メーカー側の動きにあたるため、主役機としては掲載していません。実際にこの年ホールに通って いた記憶がある方は、ぜひ下の「思い出」欄に書き残してください。

この年、記録に残る個別機種名は0件です。 1951年を年表で見る →

第五章

あの頃の空気 ── GI刈り、民放ラジオ、アトム大使

ファッション/髪型。街では、朝鮮戦争をきっかけに日本を行き来していた米兵たちの短髪スタイル 「GI刈り」が若い男性の間に広まった。女性の髪型は毛先を内側に巻き込む「ページボーイスタイル」が 人気で、春夏にはパナマ帽やカーディガンを合わせるのが定番になった。ナイロン製ストッキングが 出回りはじめ、服の色合いは戦後しばらく続いた原色から、明るいパステルカラーへと移っていった時期でもある。

放送/暮らし。この年の最大の変化のひとつはラジオだ。9月1日、中部日本放送と新日本放送が開局し、 NHKだけだった電波に初めて民間の声が加わった。年末までに民放は全国6局へ。1月3日には第1回紅白歌合戦が ラジオで放送され、テレビ本放送はまだ2年先——音だけで茶の間に届く歌合戦の時代だった。4月2日には 日本銀行が新しい五百円紙幣(肖像は岩倉具視)を発行している。

漫画。手塚治虫が光文社の月刊誌『少年』4月号から連載を始めた『アトム大使』——脇役ロボット として登場した「アトム」が読者人気を受けて主役に抜擢され、翌1952年4月から『鉄腕アトム』としての 連載が始まることになる。占領の終わりが近づく同じ年に、のちの国民的キャラクターの原型が動き出していた。

昭和26年(1951年)の懐かしい思い出のサムネイル

昭和26年(1951年)の懐かしい思い出 ── 昭和ノスタルジック劇場チャンネルによる、当時の空気を振り返るアーカイブ映像。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。

第六章

数字で見る1951

約12,000店1951年の全国ホール数。前年(1950年、約8,400店)から大きく増加
500円札4月2日発行。日本銀行の新紙幣、肖像は岩倉具視。千円札と百円札の間を埋める額面だった
1玉2円貸玉料金。1949年に定められ、この年も継続
100円パチンコ景品の上限額(1949年制定)
6局この年だけで開局した民放ラジオ局の数(中部日本放送・新日本放送・ラジオ東京 ほか)
0機種この年に個別の機種名として記録が残っているパチンコ・パチスロの数
1951年9月8日サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約に調印
1951年1月3日第1回NHK紅白歌合戦(ラジオ放送)
第七章

あなたの1951年

この年、あなたはどこで何をしていましたか。

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