特集 ─ 昭和25年

1950

全国のホールが、
初めて倍になった年。

1950年(昭和25年)1月7日、聖徳太子の肖像を描いた千円札が発行された。6月25日には朝鮮戦争が勃発し、 戦争特需が日本経済に流れ込んでいく。そんな年、名古屋のガラス商だった正村竹一が編み出した 「正村ゲージ」――釘の配置を工夫し、玉の動きを誰にも予測できないものにした設計――を土台に、 「オール10」「オール15」「オール20」という、どの入賞口に入っても同じ数の玉が出る新型機が 相次いで登場した。子供の駄菓子屋遊びに近かったパチンコは、この年を境に大人が本気で通う娯楽へと 姿を変え、全国のホール数は8,400軒と、前年から一気に倍増した。

← 思い出年表にもどる
第一章

正村ゲージ革命 ── 台の中身を変えた男

名古屋でガラス商を営んでいた正村竹一は、戦前にパチンコ台のガラス盤面の調達を頼まれたのを きっかけにこの商売に足を踏み入れ、戦後、娯楽に飢えた人々を相手にパチンコ店を再開した。当時の台は 釘の本数こそ400本以上あっても配置が単調で、玉の落ちる先がある程度読めてしまう代物だった。正村は そのうち300本以上の釘を抜き、天釘・風車・命釘などの配置を工夫しなおすことで「誰にも予測できない」 玉の動きをつくり出す――これが1948年ごろに完成した正村ゲージである。

1950年、この正村ゲージを土台に「オール10」「オール15」「オール20」――どの入賞口に入っても 同じ数の玉が払い出される“オール物”機が相次いで登場する。それまで子供の駄菓子屋遊びに近かった パチンコは、大人が本気で通う娯楽に姿を変えた。全国のホール数はこの年8,400軒と前年から一気に 倍増し、翌1951年には約12,000軒、1952年の「オール20連発式」大ヒットで42,100軒、そして1953年には 45,317軒という、戦後最初のパチンコブームのピークへとなだれ込んでいく。

正村竹一が実際に手がけた台で現存が確認されているのは、1950年製「正村ゲージオール15」ただ1台 だけとされる。2005年の愛知万博に出品されたのち、2008年には名古屋市と姉妹都市関係にあるウィーン 博物館からの要請で欧州にも渡った――町のパチンコ店から生まれた発明が、美術館に並ぶ“作品”として 国境を越えた瞬間だった。

町のガラス商が編み出した釘の配置ひとつで、子供の駄菓子屋遊びは、
大人が本気で通う娯楽に変わった。
正村ゲージ誕生秘話と正村竹一の功績のサムネイル

正村ゲージ誕生秘話と正村竹一の功績[パチンコの歴史④] ── 「パチンコ・パチスロ 悠遊道」チャンネルによる解説動画。正村竹一の経歴と、正村ゲージが生まれた経緯がまとめられている。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。

第二章

ホールの中で、世の中で

🎰 ホールの中
🗾 世の中
1月
7日、聖徳太子の肖像を描いた千円札が発行
3月
1日、映画『赤い靴』日本公開――戦後初の“シネモード”ブームが起きる
6月
15日、笠置シヅ子『買物ブギー』発売/25日、朝鮮戦争勃発
8月
警察予備隊が発足(のちの自衛隊の前身)
10月
第1回日本選手権シリーズ開幕。毎日オリオンズが初代王者に
11月
手塚治虫『ジャングル大帝』連載開始(雑誌『漫画少年』)
通年
正村ゲージを土台にした「オール10」「オール15」「オール20」が相次いで登場(オール20、正村ゲージオール15 ほか)
全国のホール数8,400軒。前年から倍増し、戦後最初のパチンコブームが始まる
第三章

この年の台

この時代のパチンコ台は実写フィルムがほとんど現存しておらず、実戦動画・解説動画を確認できた機種は見つかりませんでした。そのぶん、裏付けの取れた史実を説明文に厚く盛り込んでいます。

パチンコ

オール20

正村ゲージ系(正村商会考案・複数メーカー製造)

正村竹一が考案した「正村ゲージ」をもとに登場した、どの入賞口に玉が入っても同じ玉数(20発)が払い出される“オール物”機の代表格。この方式が広まったことで単調だったパチンコは大人が本気で通う娯楽に変わり、1950年の全国ホール数は前年から倍増して8,400軒に達したとされる。ホール名・製造元まで特定できる個別の実機記録は乏しく、複数メーカーが同種の台を「オール20」の名で手がけていたとみられる。1955年には規制対象になり姿を消した。

パチンコ

正村ゲージオール15

正村商会

正村竹一自身が手がけた「オール15」。現存が確認されているのはこの1台のみとされ、2005年の愛知万博、2008年には名古屋市の姉妹都市であるウィーン博物館からの要請で欧州にも出品された、いわば“遊技機の文化財”。正村ゲージを土台に、入賞口が違っても15発の同数払い出しをおこなう“オール物”の一種で、オール20とともに1950年のパチンコを大人の娯楽へ押し上げた立役者のひとつ。

1950年の全機種を年表で見る →

第四章

あの頃の空気 ── 赤い靴とジャングル大帝

1950年3月1日、イギリス映画『赤い靴』が日本で公開されると、戦後日本で最初の“シネモード”ブームを 巻き起こした。街には映画にあやかった赤い靴を履く女性たちが現れ、ビニール製のレインコートや ブレザージャケット、首もとを彩るネッカチーフも先端のおしゃれだった。髪型はボブヘアが広がり、 女性の化粧にも本格的なアイメークが取り入れられはじめた時期である。1月7日には聖徳太子の 肖像を描いた千円札が発行され、6月25日には朝鮮戦争が勃発。戦争特需が日本経済に流れ込み、8月には 警察予備隊(のちの自衛隊の前身)が発足するなど、戦後の空気が次の時代へ切り替わっていく年でもあった。

本や雑誌の世界でも、のちに時代をつくる種がまかれていた。11月、学童社の雑誌『漫画少年』で 手塚治虫『ジャングル大帝』の連載が始まる(1954年4月号まで続いた)。手塚が大阪から東京へ 活動の拠点を移すきっかけになった作品でもある。歌の世界では6月15日、笠置シヅ子『買物ブギー』が 発売され街に流れたが、当時はまだ全国統一のヒットチャート集計が存在せず、当時の新聞は 『ヒット歌謡と名のつくものが一つも生れず』と1950年を評したという記録も残る――それくらい、 いまの意味での“年間ヒット曲”を特定するのが難しい年だった。10月には第1回日本選手権シリーズ (のちの日本シリーズ)が開かれ、毎日オリオンズが初代王者になっている。

ホールの中に目を移すと、まだ景品の主役はタバコだった。玉を握りしめてタバコやお菓子と交換する のが当たり前で、景品交換の上限は1949年に定められた100円のまま、この年も続いていた。「オール物」 という新しい遊び方が生まれたのは、まさにそんな、駄菓子屋の延長のような景品交換所の隣でのことだった。

「1950年回顧」総集編のサムネイル

「1950年回顧」総集編(昭和100年シリーズ) ── 中日映画社が公開しているニュース映画アーカイブ映像。朝鮮戦争や特需景気など、1950年当時のニュースがそのままフィルムに残っている。

1950年〜1952年ヒット曲メドレーのサムネイル

1950年(昭和25年)〜1952年(昭和27年)ヒット曲メドレー ── 統一されたヒットチャートが存在しない時代のため、この年前後によく流れていた歌をまとめたメドレー動画。当時の空気を音で感じられる一本。

動画はYouTubeの公開プレイヤーをそのまま埋め込んでいます。再生できない場合は動画側の設定によるものです。

第五章

数字で見る1950

8,400軒1950年の全国ホール数。前年から倍増し、戦後最初のパチンコブームが始まった
1,000円1月7日発行の千円紙幣。聖徳太子の肖像で、1963年まで13年間流通した
100円景品交換の上限額。1949年に定められた規定がこの年も続いていた
60歳超この年、日本人女性の平均寿命が統計上はじめて60歳を超えた
2機種この年に記録として残っているパチンコ・パチスロの数(オール20、正村ゲージオール15)
1950年1月7日聖徳太子の肖像入り千円札が発行された日
1950年6月25日朝鮮戦争勃発。戦争特需が日本経済に流れ込んでいく
第六章

あなたの1950年

この年、あなたはどこで何をしていましたか。

年表で1950年を開く →